ヨハネ福音書16章25~33
男と女の愛はエロース、友愛はフィレオー、神の愛は、無償の愛、アガペーです。
しかし、
「父御自身が、あなたがたを愛しておられる」(16:27)では、フィレオーが使われています。
不思議な言い方です。
神が友を大切に思うように、あなたがたを大切にされる、というのです。
これは、
「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・・友と呼ぶ。」(15:15)
につながっています。
弟子たちが言います。
「今、分かりました。・・・あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」(16:30)
これに対して、主イエスが言われます。
「今ようやく、信じるようになったのか。」(16:31)
この文章は、長いあいだ肯定文とされてきました。
「信じることができるようになった。(ほんとうに良かった。)」
しかし、現在では疑問文として読むようになりました。
「信じると言うのか。(でも信じてなどいない。)」
どちらの理解も可能な文脈です。
やっと分かりました、あなたが神のもとから来られたと信じます、と弟子たちは心から言っているのです。
でも主イエスは、言われます。
「あなたがたが散らされて・・・わたしをひとりきりにする時が来る。」(16:32)
すぐに崩れてしまうからダメだとはおっしゃらず、わたしたちの弱さをご存知のうえで、受け入れてくださるのです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)
この「苦難」は、迫害による困難、困窮です。
詩編73篇は、鮮やかにわたしたちの姿を描いています。
悪人の栄える姿を見て羨ましく思い、心が乱れる。
でも、それは愚かなことだ。一見幸せそうに見えるが、彼らは罪の虜であり、悪に縛られて平安がない。
「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」(16:32)
わたしたちが立派だから、世に打ち勝つわけではありません。
父なる神が共にいてくださるから、苦難を乗り越えることができるのです。
「今、分かりました。・・・信じます。」は、最後の晩餐の席で弟子たちが語った言葉ですが、同時に60年のちの教会の告白でもあるのです。
迫害の中で復活の主に出会った、神に背いたわたしたちを友と呼んでくださる、そういう経験をしたのです。
福音は、立派な人たちによって伝えられてきたわけではありません。
つまずき、背いたにもかかわらず、主の愛によって再び立ち上がらせていただいた、そういうことを経験した、おびただしい証人によって、神の愛が伝えられてきたのです。
(2016年1月31日)
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