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悲しみは喜びに変わる

ヨハネ福音書16章16~24


「女は子供を産むとき、苦しむものだ。・・・しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」(16:21)

とても印象深い表現です。

「産みの苦しみ」は、旧約聖書ではどう語られているでしょうか。
イザヤ書26章では、「産みの苦しみ」のような痛みを味わったが、何の実りも得られなかった。

イザヤ書66章では、新しい命が生まれるのは、たやすいことではない。
「産みの苦しみ」を味わうことなしに、新しいイスラエルは生まれない、と語ります。

ところが、ヨハネ福音書はまったく違う言い方です。
復活の主に出会う喜びはどんなに大きいか、激しい痛みや苦痛を忘れてしまうほどだというのです。

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(16:16)

十字架の死が目前に迫っている。
しかし、すぐに復活の主に出会うというのです。
この謎のような言葉が、繰り返されます。

復活の主に出会うとは、どういうことでしょうか。

「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(20:19)

復活の主の方から、やって来られるのです。

「戸に鍵をかけていた・・・」は、肉体をもつ存在ではないことを示しています。
しかし、「パンと魚を与え」る(21:13)確かな存在として、わたしたちの真ん中に立たれるのです。

「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」(16:20)。

ここで「泣いて」は「死者を悼んで大声で泣く」、「悲嘆に暮れる」は「弔いの歌を歌う」という言葉です。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(16:20)の「悲しむ」と、「女は子供を産むとき、苦しむ」(16:21)の「苦しむ」は、「痛みを味わう」という同じ言葉です。

「もはやその苦痛を思い出さない。」(16:21)

この「苦痛」は、「迫害による苦難、困窮」という言葉です。
主イエスが殺されてしまったという嘆きは、陣痛のような激しい苦痛をもたらす。
しかし、その苦痛は、復活の主に出会った喜びで吹き飛ぶ。
その喜びは、迫害による困難を忘れるほど大きいというのです。

「わたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:23~24)

この言葉を、どう受け取ればいいでしょうか。

願いをかなえてくださいと、一生懸命に祈る。だけど、かなえられない。

自分勝手な願いだったと気づく。

そして、御心を示してください、このわたしを用いてくださいという祈りに変えられていく。

願ったとおりには与えられない。
しかし、望んだ以上のものが与えられるのです。
(2016年1月24日)

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