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真理の霊が来ると 

ヨハネ福音書15章26~16章15

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(16:13)

この言葉は、旧約聖書の文脈で捉えると理解することができます。
「神様は、どこまでも約束を守る真実な方である」、
神の息吹(聖霊)があなたがたに働いて、そのことを示してくださるというのです。

「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ない」(16:7)

ここで、「実を言うと」は、「わたしはあなたがたに真理(真実)を告げる。」という言葉です。
わたしが去ることが、あなたがたの益になる。
わたしは殺されるが、そのことによって初めて、あなたがたは神が真実であることに気づくだろう、というのです。

弟子たちは、思っていたはずです。
この方は力ある言葉を語る、不思議な業をなさる、この方についていけば間違いない。

しかし、間近でその言葉を聞き、寝食を共にしていたにもかかわらず、主イエスが十字架への道を歩んでおられることを弟子たちは気づきませんでした。

自分の思いにしがみつき、目に見える現実に頼っている限り、神様の真実は見えないのです。

主イエスが十字架にかかってあっけなく殺され、自分たちにはもう何の希望もないと嘆く弟子たちの真ん中に、復活の主が立たれるのです。

そして、弟子たちは気づくのです。この方こそ神から遣わされ、苦しみを味あわれた主だ、この方が神の真実を示してくださった、と。

「証しをする」(15:27)は、「弁護者」と同様、裁判の言葉です。

苦難のなかで、あなたは救いを与えられたはずだ。
絶望のただなかで、神様が働いておられる、わたしを愛しておられる、支えてくださる、逃れる道を与えてくださる、そういう体験をしただろう。
神様は真実な方だ、信頼するに足る、いつもわたしたちを愛していてくださる。
人の目から見たら、挫折した気の毒な人としか見えないかもしれない。
そんなみじめな姿を、人は嘲笑うかもしれない。
しかし、そこに神様の愛が注がれている。それが、あなたには分かるはずだ。

「真理の霊が来ると・・・」(16:13)は、そういうことを語っているのです。
けっして哲学の言葉ではありません。



主イエスの十字架の姿に目を注ぐ時、目に見える現実や人の思惑に振り回されて、泣いたり笑ったりしているところから解放され、神の愛に励まされて、また歩み出す力を与えられる。
そのことを、あなたは何度も体験してきたはずだ。

その恵みの数々を算えてみなさい。

そして、そのことをあなたの周りにいる人たちと共に、証言しなさい。

こう呼びかけられているのです。
(2016年1月17日)


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