ヨハネ福音書15章18~25
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」(15:18)
この言葉には、ヨハネ福音書が編集された紀元90年代の教会の状況が反映されています。
昔ながらのユダヤ教の教えに従っていたら、波風も立たず、穏やかに暮らしていけたことでしょう。
しかし、ナザレのイエスこそ神の子、救い主だと告白したために、村から追われ、家を失ってさまようことになった。
そういう厳しい中で、この言葉が語り継がれ、書きとめられたのです。
この言葉を教会は長い間、
「どんなに迫害されても、恐れることはない。福音を宣べ伝えなさい。」
という文脈で理解してきました。
しかし、それでは狭くなってしまわないでしょうか。
主イエスは、罪人というレッテルを貼られた人たち、徴税人、罪の女、病人のところに出かけて、一緒に食事をし、友となられた。
世から排撃されている人たちに、神はあなたがたと共におられると言ったことが、当時のユダヤ教の指導者たちから神を冒涜するものとされ、殺されたのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(15:12)
主イエスに従って、互いに愛し合い、分かち合うとするとき、世から憎まれるということが起こる。
その時、主イエスが十字架への途上において、憎しみを一身に受けたことを思い出しなさい。
弟子たちの前に膝をかがめ、汚れた足を洗ってくださったあの姿を思い出しなさい。
そして、あなたがたも互いにいたわりあい、支え合う、そういう歩みを続けなさい。
そう語りかけておられるのです。
「世」は、ヨハネ福音書の冒頭にも出てきました。
「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」(1:10)
そして、
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:16~17)
神は、御子を世に送られた。しかし、世は受け入れない。
救い主を与えられたら、歓呼の声を上げて神に従うというのではなくて、世はどこまでも逆らい、背き続ける。
そういう現実がある。
そういうただ中で、あなたがたは生きていく。
しかし、あなたがたはその中で野垂れ死にするわけではない。
わたしが世に勝ったように、あなたがたも世に勝つ。
こう言われているのです。
(2016年1月3日)
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