マタイ福音書4章18~25
最初の弟子を招く記事には、「ご覧になった」という言葉が2回出て来ます。
ギリシア語でホラオー「見る」という言葉です。
網を打っている姿、網の手入れをしている姿をご覧になって、主イエスの方から近づいて来られる。
そして、招きの言葉がかけられる。
招きに応えて、直ちに従う。
この3段階です。
準備が整い、機が熟した時に招かれるわけではありません。
予期しない時に、主イエスが目を注いで近づき、声をかけてくださる。これが弟子を招く記事の特徴です。
「人間をとる漁師にしよう」(4:19)
この言葉を聞いて感動する人は多いのです。
でも、「人間をとる」という言葉は、旧約聖書ではあまりいい意味では使われていません。
釣り竿で引っかけて無理に連れていく、という意味を含んでいるからです。
しかし、主イエスが口にされるとき、その意味は大きく変化します。
苦しんでいる人、嘆いている人、どうしていいか分からなくて途方にくれている人が大勢いる。
そんな人たちに仕え、助け、手をかし、声をかけて励ます、そういう仕事を一緒にしよう、という招きです。
自分のために周りの人を利用するのではなく、隣人に仕えるために、「わたしについて来なさい。」と言われたのです。
かつて教会は、「人間をとる漁師」という言葉を、伝道命令と理解しました。
世界中に出かけて、まだ神を知らない人に福音を伝え、そこに教会を作る。
これがあなたに与えられた使命だ。
「人間をとる漁師にしよう」という言葉を、そういう風に理解したのです。
しかし、大切なのは教会を拡大することではなくて、福音を伝えることです。
罪に喘いでいる人、希望を失ってもがいている人に、神の愛を伝えることです。
主イエスがご自分の命を捧げられたように、あなたも隣人に仕えなさいという招きです。
「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。・・・世の無学な者・・・無力な者・・・無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」(Ⅰコリント1:26~28)。
招かれたのは、決して立派だったからではない。
そのことを思い起こし、わたしたちも喜びを持って主に従いたいと願うのです。
PR