マタイ福音書5章3
「心の貧しい人々は、幸いである。」(5:3)
この言葉は、長いあいだ「謙遜」を教えるものとされてきました。
しかし、本当は何を語っているのでしょうか。
「貧しい」ことを、古代のユダヤではどう考えたでしょうか。
豊かであることは、神の祝福のしるしとされました。
しかし、預言者たちは、権力者や金持ちが富を独り占めにしていると非難しました。
こうして、貧しい人こそ神から愛されているという考え方が出てきます。
主イエスの時代には、あえて貧しい暮らしのなかで神を求めようとする人々がいました。
マタイ福音書の記者は、「心の」(プネウマ)を付け加えて、「心の貧しい人々は、幸いである。」としました。
誤解されないようにと、言葉を補い、形を整えたのです。
貧しさに打ちのめされている人、何の誇りも持てない人、頼るべき力もなく行き詰まっている人、そんなあなたがたに神は近づいて来られる。
あなたがたの貧しさを、そのままに放ってはおかれない。
神の恵みでいっぱいに満たそうという約束を、必ず果たしてくださる。
そういう幸いの宣言であり、慰めの言葉です。
「貧しい」という言葉をヘブライ語から考えると、違った面が見えてきます。
「貧しい」(アニー)と「柔和な」(アーナヴ)という形容詞は、「低くする」(アーナー)という動詞から生まれています。
つまり、「貧しい」と「柔和な」は一つの言葉につながっていて、ニュアンスが近いのです。
詩編37篇11「貧しい人は地を継ぎ・・・」は、口語訳では「柔和な者は国を継ぎ・・・」と訳されています。
なんと、今日の箇所と同じ言い方なのです。
「貧しい人々・・・天の国はその人たちのものである。」(5:3)
「柔和な人々・・・その人たちは地を受け継ぐ。」(5:5)
どちらの意味にも使われていて、どう翻訳するかは前後の文脈で判断するしかない。
そういう言葉なのです。
「貧しい人に良い知らせを伝え・・・打ち砕かれた心を包み・・・」(イザヤ書61:1)
貧しい人、打ちのめされた心を、神の愛が包み、癒やす。これは、救いの出来事を言い表したものです。
この箇所は、詩編51篇につながっています。
「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)
心に闇を抱えて苦しむ人、生きていくうえでのつらさに苦しむ人、すべての人を神は決して見捨てない。
そんなあなたがたのために、主イエスは十字架にかかられたのだ。
だから、元気を出して起き上がりなさい。
そう祝福し、呼びかけておられるのです。
PR