マタイ福音書5章4
「悲しむ人々は、幸いである。」(5:4)
「悲しむ」という言葉は、ヘブライ語では死者を悼む、愛する者を失い大切な人がどこかへ連れ去られた、そのつらさに泣く、あるいは自分の罪を悲しむ、そういう意味の言葉です。
目の前で嘆き、悲しむ人に心を揺さぶられながら、主イエスはお話しなさったのです。
「その人たちは慰められる。」(5:4)
「慰める」のは、人間ではありません。
神が慰めてくださるのです。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。」(出エジプト記34:6~7)
信頼していた人みんながあなたを見捨て、非難する時が来るかもしれない。
あなたは、何度も神に背き続けた。
しかし、そんなあなたを神は見捨てないで、どこまでも慈しみと愛を注がれると語ってくださるのです。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。・・・苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。」(イザヤ書40:1~2)
バビロン捕囚は、60年続きました。
つらい日々の中で、こんな罰を受けるのは神に背いたからだと自分たちの罪を嘆き、深く悔いる。
そういう中に、「苦役の時は今や満ちた」という慰めの声が響くのです。
福音書では、「慰める」という言葉はどのように使われているでしょうか。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14:16)
「弁護者」(パラクレートス)は、「慰める」(パラカレオー)からきた言葉です。
わたしの代わりに弁護者(助け手・慰め主)を送ってくださるようにお願いしようと、主イエスが約束なさって送られたのが、聖霊です。
聖霊は、ヘブライ語では神の息吹、土くれのような人間に命を与える、神の息です。
「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(5:4)
これは、主イエスがご自分の命をかけて与えてくださった約束です。
ですから、わたしたちが立派な信仰を持たなければ与えられないということではありません。
無力で惨めな姿のままのわたしたちに、踊りあがるような喜びを与えようと、言われるのです。
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