マルコ福音書16章1~8
マルコ福音書は「恐ろしかったからである。」(16:8)で、結びになります。
9節以下は、のちに書き足されたものです。
復活の主が弟子たちに現れる場面は、マルコ福音書にはありません。
突然の終わり方で、福音書記者は問いかけているのです。
女性たちは恐怖から立ち直って、務めを果すのか。
弟子たちは命じられた通り、「ガリラヤ」へ向かうのか。
復活の主イエスと出会って、力を受けるのか。
「目を上げて見ると」(16:4)
これは創世記に良く出て来る表現です。
それまでは、うつむいていたのです。
わたしたちは日頃、目の前のことに心を奪われています。
そこから身を起こし、目を上げて主を仰ぐ。すると、真実が見えてくるのです。
「驚くことはない。」(16:6)
神の御業が、今あなたの目の前で起こっている。
そういう宣言です。
「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(16:6)
「復活なさって」は受身形で、「引き起こされた」という言葉です。
「あの方は、神によって死者の中から引き起こされて、ここにはおられない。」
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」(16:6)
なぜ、「ペトロに」なのでしょうか。
ペトロは、「そんな人は知らない」と三度も否定し、イエスを見捨てて逃げ出しました。
悔やみ、嘆き、うずくまっているペトロに、伝えてほしい。
ガリラヤへ、一緒に向かおう。
そういう励ましの言葉です。
「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16:7)
「先に行かれる」は、時間的な意味ではありません。
羊飼いのように、「あなたがたの先に立って導いて行かれる」のです。
なぜ、「ガリラヤ」なのでしょうか。
ガリラヤは、ローマやギリシアの文化の影響を強く受けた地域です。
神殿のエルサレムとは、対極です。
主イエスは、汚れた霊にとりつかれた人を癒やし、罪深い者とレッテルを貼られた人の友となりました。
伝統的な価値観に閉じこもっていては、主イエスに従うことはできません。
「ガリラヤ」は、わたしたち一人ひとりに与えられた現場です。
それぞれの場で精一杯、主を見上げて歩みましょう。
平穏で幸せな暮らしが待っているわけではありません。
しかし、戦いのときも苦難の中で、復活の主イエスが先に立って導いてくださいます。
「あなたと共にいる」と約束してくださる主を見上げて、歩んで行きましょう。
(2017年12月3日)
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