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ただ、お言葉をください

マタイ福音書8章5~13

「カファルナウム」(8:5)は、荒野で試みを受けた後、主イエスが宣教を始めたガリラヤの町です。
商業と漁業で栄え、収税所が置かれ、ローマ軍の駐屯地でした。

百人隊長が「近づいて来て懇願し」(8:5)た。
この人には、ためらいがあったはずです。
願いを聞いてもらえるだろうか。
拒絶されるのではないか。
そんな中で、あえて前に一歩足を踏み出したのです。



「懇願し」は、パラカレオーというギリシア語で、「勧める」、「警告する」、「慰める」と訳されます。
「あなたがたに勧めます。」という言い方が、パウロの手紙によく出て来ます。
ここでは、「請い求める」という意味で使われています。
権力の一端にいる人間が、プライドをかなぐり捨てて、ナザレのイエスにひれ伏して懇願した。

これは、驚くべきことです。

「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」(8:6)

動けなくなって何年も寝たままで哀れだから、何とかしてやってください、という風に聞こえます。
しかし、「寝込んで」は、バタッと「倒れた」という言葉です。
発作で倒れて大変なのです、と訴えたのです。

「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。」(8:8)

わたしは汚れた者で、あなたに何かをお願いする資格などありませんという思いと、ただあなたにすがりますという主イエスへの信頼が、ここに表れています。

この姿を見て、「これほどの信仰を見たことがない。」(8:10)と言われた。

「信仰」はギリシア語でピスティス、神の変わらぬ「真実」、「誠実」、「まこと」という意味の言葉です。
「これほど神の真実によりすがろうとする姿を、わたしは見たことがない」、と言われたのです。
わたしは全く無力だ。
倒れている人を目の前にして、ただ神の憐れみにすがるしかない、という百人隊長の姿を指しているのです。



主イエスの「いやし」は、神がお造りなった大切な命の傷をいやし、罪に絡め取られている状態から解放していこうという働きかけです。

「中風」(8:6)という病気は、象徴的です。
思い通りに行動することができないわたしたちですが、命の言葉で満たされるとき、立ち上がることができるのです。
「ただ御心ならば」と神にすがり、「ただ、お言葉をください」と願う者が、救いにあずかるのです。
(2018年9月9日)




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