マタイ福音書8章1~4
山上の説教に一区切りがついて、主イエスの宣教活動が語られていく中で最初に出て来るのが、重い皮膚病を患う人の癒しです。
「重い皮膚病」は、以前の聖書では「らい病」とされていました。
ハンセン病は、なかなか感染する病気ではないことが理解されるようになりましたが、長いあいだ偏見による差別が続いたのです。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。」(レビ記13:45)
重い皮膚病にかかった人は、一目でそれと分かるように、まともな服を着ることが許されず、髪の毛を束ねることもできず、道を行くときには「わたしは汚れた者です。」と注意を呼びかけなければならなかったのです。
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(8:2)は、
「あなたは望んでくださいますか、わたしが清くなることを」という意味の言葉です。
これに対して、「わたしは、そう願う。清くなれ。」と言われた。
これは「汚れた」人として家族からも社会からも捨てられた人と、主イエスがどう向き合われたかという物語です。
この人は勇気をふりしぼって、主イエスに近づいて来たのです。
「わたしは汚れた者です。」と、大声で叫びながら近づいて来た。
もし受け入れてくださらなかったら、どんなに惨めな思いになるか。弟子たちにさえぎられるかもしれない。
そんなことをあれこれ考えて、思い悩んだことでしょう。
「手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」(8:3)
主イエスは律法を破って、この病める人に触れたのです。
ひたむきな信仰の故に癒されたと考えるのは、間違っています。
そう考えると、癒されないのは信仰が足りないからということになります。
こういう考え方は、耐え難い苦痛を与えます。
わたしたちの嘆きに、主イエスは「手を差し伸べて、触れて」くださるのです。
重い皮膚病の人たちは、町はずれのゴミ捨て場のような所で、身を寄せ合って暮らしていたと言われます。
村に住むことが許されず、排除されている人を、「あなたも大切な神の子の一人だ。」と抱きかかえてくださる。
そんなあふれる愛が、主イエスの言葉と業の根底にあるのです。
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