マルコ福音書6章1~6a
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。」(6:2)
どこから得たのか。
「神から得た」という言葉が隠されているのです。
「授かった知恵」(6:2)という言葉が、それを表しています。
「その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(6:2)
この
「奇跡」は、「力」という言葉です。
罪のゆえに患っていると思われているこの病人を、神は愛しておられる。
そのしるしとして、「力ある業」がなされた。
みんなから軽んじられている病気の人、神に呪われたと思われている人を、実は神が心にかけておられることが、みんなの目に明らかになる。
これが奇跡なのです。
「奇跡」すなわち「力ある業」は、何ごとかを示す「しるし」です。
立派な信仰を持ち、立派な行いをした人が祝福されるのではなく、罪のゆえに病いを受けたとされる人、悪霊がついたとされる人が神の祝福にあずかるのを目の当たりにする、
それが、「この力ある業は一体何を示しているのか」の意味なのです。
「マリアの息子」(6:3)は、微妙な表現です。
当時の自然な呼び方は、「ヨセフの息子」です。
父親が亡くなった後、弟や妹を養う責任があるのに、家を飛び出して各地を放浪するなど、何という親不幸者か。
他の町では立派な先生だと評判らしいが、怪しいものだ。
きちんとしたラビではないし、いかがわしい詐欺師まがいではないのか。
あの男のことは、子どもの頃からよく知っている、家族のこともどんな仕事をしてきたかも知っている。
ナザレの人たちは、先入観のゆえに、あの大工が何を言うかとつまずいたのです。
「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(6:4)
家族や親族など身近な人が、実はあまり理解していない。
よく分かっていると自負している人が、つまずくのです。
預言者が故郷で受け入れられないのは、なぜか。
預言者は、わたしたちの生き方は間違っている、神の前で悔い改めて、正しい生き方をしようと言ったために、受け入れられなかった。
自分たちの幸せを手放したくないという人たちが、預言者を排撃したのです。
今の暮らしを手放したくない、もっと豊かになりたい、もっと幸せになりたいと願う人たちが、神の前で正しく生きよう、分かち合って生きようという預言者を受け入れなかったのです。
「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(3:35)と、主イエスは言われました。
わたしたちは、主イエスが語られた言葉、その不思議な業に目を留め、神は本当に小さい者、弱い者を愛しておられる、そのことを感謝して受け止めましょう。
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