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遣わされて生きる

マルコ福音書6章6b~13

「二人ずつ組にして遣わす」(6:7)
裁判では二人ないし三人の証言を必要とする(申命記17:6)という規定があり、そのために二人ずつ組にされたという見方があります。

]あるいは二人一緒であれば、一人が立ち往生しても助けられるという現実的な面があります。

しかし、もっと本質的なことがあります。
二人一緒は心強いけれど、ときに窮屈でぶつかるのが人間の現実です。

自分ひとりの考えで突き進むのではなく、他者の考えに耳を傾ける。
欠点を抱えた者が心を一つにして祈り、力を合わせて歩む。
福音を伝えることは、共に生きることにつながっているのです。



「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」(6:8~9)

お金も着替えも持つな。旅支度を整えて出かけるのではなく、ただ神だけを頼りなさい。
必要なものは与えられるというのです。


「悔い改めさせるために宣教した」(6:12)

「悔い改める」ことを、旧約聖書では「神に立ち帰る」という言い方をします。
世の中こんなものだと、見て見ぬふりをする、世の流れに流されていく。
それが、隣人を踏みにじることにつながるのです。

「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。」(イザヤ書55:7)

放蕩息子(ルカ15章)の話が分かりやすいでしょう。
父なる神のもとへ、立ち帰る、引き返す。
これが悔い改めです。


「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(6:13)

まじないのようなことを語っているのではありません。
「悪霊を追い出す」とは、罪の力に縛られている状態から解放することです。
神の癒しを祈るとき、病人自身もこの病気を癒してくださいと祈る。
でも、すぐには癒されない。
どうして癒していただけないのかと、自問自答する。
そのとき、その前にやるべきことがあると示される。
たとえば、あの人をずっと憎んできた、あの人と和解しなければ、と示される。こうして解放される。
祈るとき、新たな目が開かれ、希望と力が与えられるのです。



弟子たちは、主イエスのなそうとされていることを、理解していませんでした。
そんな不完全な者が、遣わされたのです。

わたしたちも、間違いばかり繰り返す、罪深い者です。
そんな小さな者でも、不十分なままで遣わされ、用いられるのです。
(2016年10月30日)




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