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どこから来たのか

ヨハネ福音書18章38~19章16


「見よ、この男だ」(19:5)

総督ピラトは、「鞭打たれ、辱められたこの男が、お前たちの王か。」と嘲ります。

しかし、同時に「この人を見よ。ここに、まことの人間がいる。」という声が重なります。

目に見える姿と隠された真実の姿を二重写しに語るのが、ヨハネ福音書の特徴です。
それが、ここにも表れています。

「お前はどこから来たのか」(19:9)

「ガリラヤ出身か。」という問いです。

ここでも、「神のもとから遣わされた方」という声が隠されています。

「この男は死罪に当たります。神の子と自称したから」(19:7)

この田舎者は、自分は神の子だと言って神を冒瀆したと断罪されます。
しかし、この人こそ神の子だと、語っているのです。
「見よ、この男だ」は、「見よ、あなたたちの王だ」(19:14)と重なり、人々が主イエスを歓迎した言葉「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
(12:13)と重なります。

バプテスマのヨハネの言葉、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)が、「見よ、この男だ」に重なり、「見よ、あなたたちの王だ」、さらに「イスラエルの王」とつながっています。

「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」は、ギリシア語でアイロー、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」(19:15)の「殺せ」も、同じアイローです。アイローには、「持ち上げる」という意味があります。

十字架に「持ち上げろ」が、「殺せ」と訳されているのです。
「持ち運ぶ」という意味もあります。
「わたしの軛は負いやすい」(マタイ11:30)の「負う」も、アイローです。
同じ言葉が幾通りにも使われ、隠された意味を伝えています。

バプテスマのヨハネの言葉が実現した。

主イエスは「世の罪を取り除く小羊」として十字架で殺された、これが分かるかというのです。
「過越祭の準備の日の、正午ごろ」(19:14)

は、主イエスが過越の小羊として死んだことを告げています。
過越の小羊は、過越の前の日の昼に神殿で屠られ、過越の食卓に置かれるのです。
「皇帝のほかに王はありません」(19:15)

「主ヤハウェの他に神はない」とする人たちの声です。何という皮肉でしょう。




かつて教会は、非国民とされることを恐れ、天皇を神としました。

わたしたちは、世の力を神としていないか、問われるのです。
ピラトは、総督の地位を失うことになるぞと脅され、イエスを引き渡します。
身を守るために、良心を売る。
そんなことが、わたしたちにも起こります。

目に見える姿に目を奪われず、隠された真実を見抜く力を与えられたいものです。
(2016年3月20日)



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