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なぜ泣いているのか

ヨハネ福音書20章1~18


ヨハネ福音書は、マグダラのマリアが復活の主に出会ったことに焦点をあてて、復活の朝の出来事を伝えています。

マリアは「墓から石が取りのけてあるのを見」て(20:1)、ペトロともう一人の弟子に「主が墓から取り去られました」(20:2)と伝えます。

しかし、墓に入ろうとせず、「墓の外に立って泣いて」(20:11)いました。

悲しみの涙、ひとり取り残された涙です。

心の拠り所を失って、泣くしかない。

死の力に屈服して泣いていたマリアが、「マリア」と言われて、「振り向く」(20:16)

主の声の方に向き直って、復活の主に気づく。主の声を聞いて振り向き、心の目が開けるのです。

「すがりつくのはよしなさい。」(20:17)

少し冷たい言葉に聞こえますが、これは「だれを捜しているのか。」(20:15)とつながっています。

ゲッセマネの園で捕らえられるとき、兵士たちに向かって三度言われた言葉、「だれを捜しているのか。」(18:4、7、8)その後に言葉が続きます。

「わたしである。」(エゴー・エイミー)(18:5、6、8)

「わたしは神である」という宣言です。



ここで、「だれを捜しているのか。」(20:15)の後にも、言葉が隠されています。

「わたしである。」
「あなたが捜している人は、死者の中にはいない。わたしは神である。」
だから、「すがりつくのはよしなさい。」なのです。

あなたは、今も懐かしい思い出にすがりついている。
しかし、わたしは神によって死者の中から起き立ち上がらされた。
天の父のもとに帰るべき者だと、宣言しているのです。


「復活」は、ギリシア語の「起き上がらせる」の受身形で語られます。
「神によって、死者の中から起こされる」そういう語感です。
弟子たちにマリアは言います。

「わたしは主を見ました」(20:18)

「わたしは振り向いて主であることがわかった。心の目で理解した。」という意味の言葉です。



「目で見る」という見方では、復活の主に出会うことはできないと、ヨハネ福音書は語ります。

その朝、何人もが墓に行きましたが、復活の主に出会ったのはマグダラのマリアだけでした。

振り向いて、主の声を聞く。
主が語ってくださった言葉を、もう一度味わい直す。
その時、あなたも復活の主に出会うことができる、まことの命を与えてくださる方に出会うことができる。

そうマリアは語るのです。
(2016年3月27日)


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