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まことの栄光とは

マルコ福音書9章2~13

「高い山」(8:2)は、神がご自身を示される山、モーセとエリヤが神に出会った場所、ホレブ(シナイ山)です。

聖書地図を見ると、シナイ山ははるか南の方です。
ですから、象徴的に語られた話と考えていいでしょう。



「六日の後」(9:2)は、「仮小屋」(9:5)と関連しています。
かつてイスラエルがエジプトを出て、四十年荒野を旅したことを想い起こすために、仮小屋を建てて過ごす。
これが仮庵祭で、祭の最後の日、七日目に盛大な盛り上がりを見せるのです。

今日の箇所は、栄光に輝く主イエスの話ですが、すぐ前で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、・・・排斥されて、殺され」る(8:31)と言われました。

「苦しめられて、惨めに殺される」ナザレのイエスこそ、実は神の子だというのです。

「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。」(9:6)

多くの苦しみを受けて無惨に殺されると言われた主が、栄光に輝いてモーセとエリヤと話す姿を見せておられる。
いったいどういうことか、何が何だか訳が分からなかったのです。

そんな弟子たちに、神の声が響きます。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(9:7)

「聞く」ことは、「従う」ことを含んでいます。
聞き従う。
直前の「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(8:34)という言葉につながっています。

信仰を持つことによって、成功が約束され、病気や苦難から守られる、そんなことをわたしたちは願っています。
でも、それは見当はずれなことです。
罪人や病人に神の赦しを宣言したために、神を冒瀆する者として排斥され、嘲られて十字架に死んだナザレのイエスの言葉に耳を傾け、従いなさいという言葉が響いています。



「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。」(9:12)

これは、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」を指しています。
イザヤ書の預言が成就する。
しかし、復活の出来事が起こり、復活の主に出会うまで、あなた方にはとうてい分からないだろう、と言われたのです。

しかし、そんなわたしたちに、復活の主は向こうから近づいて来てくださるのです。
(2017年3月12日)



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