マルコ福音書9章14~29
「『できれば』と言うか。」(9:23)
発作に苦しむ子供をかかえ、「できれば・・・」としか口にできないほど打ちのめされた父親の姿に、主イエスは心を震わせておられるのです。
父親は言います。
「信仰のないわたしをお助けください。」(9:24)
わたしには、何も誇るものがありません。
誇るべき信仰もないし、立派なおこないもありません。
父親は、正直な姿をさらけ出しているのです。
どうして弟子たちは、この子供を癒すことができなかったのでしょう。
主イエスが山に登られた、留守の間の出来事です。
弟子たちのもとに、病気の子供が連れてこられた。
そのとき弟子たちは、目の前の子供を何とかして助けたいと心から願ったわけではなく、自分たちの力を皆に誇示したいという気持ちが強かったのではないでしょうか。
だからこそ、主イエスは「祈りによらなければ・・・」(9:29)と言われたのです。
形だけイエスの祈りや癒しの所作を真似ることなど、空しいことです。
主イエスの癒しの業の原点にあったのは何か。
この気の毒な子供、苦しんできた親子は、決して神の罰を受けているのではない。
神から愛されていることを味わうことができるように、との願いがあったのです。
「イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。」(9:27)
「手を取って、起こす」は、復活につながる言葉です。
わたしたちは、日々、まるで死んだようにして暮らしています。
でもその死の世界から、神の力によって引き起こされ、命を与えられる。
そのことが、ここでも語られているのです。
「祈る」とは、どういうことか。
幸せを求めて祈るのではなくて、御心を示してください、御心に従う者とさせてくださいと祈る。
その時、復活の命が与えられる。
そのことが、ここでも語られているのです。
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