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まことの王

マルコ福音書15章1~20
ピラトの問い「お前がユダヤ人の王なのか」(15:2)は、大祭司の問い「お前はメシアなのか」(14:61)と重なります。
大祭司の言う「メシア」は、ダビデ王の再来としてユダヤに再び繁栄と栄光をもたらす王を意味しています。



わたしたちの考える「メシア」=キリスト(救い主)とは、かなりずれています。
一方、ピラトの言葉には、こんな男がローマに歯向かうというのか、そんな馬鹿なことなどありえないという意味が込められています。
兵士たちが「ユダヤ人の王、万歳」(15:18)と言うのは、悪ふざけです。
「ユダヤ人の王」はこんな弱い男なのかと言ってあざけり、侮辱したのです。
「茨の冠」(15:17)は、痛々しさを強調しているのではありません。
光り輝く黄金の冠ではなく粗末な「草の冠」をかぶせられ、みじめな姿をとられたことを表現しているのです。

大祭司から汚名を着せられ、ピラトからこんな男は裁く値打ちもないと言われた無力な姿。
そして兵士たちから小突き回され、侮辱される姿。

君臨する王とは真反対のナザレのイエスを、あなたは「まことの王」として仰ぐかという問いが、4回繰り返される「ユダヤ人の王」という言葉に隠されているのです。


今日の箇所には、「誰が十字架につけたのか」という問いが隠されています。
訴えたのは、祭司長たちです。
「十字架につけろ」(15:13、14)と叫んだのは、群衆です。
勝手にしろと言って引き渡したのは、ピラトです。
あざけり、侮辱したのは、兵士たちです。

使徒信条では、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・・」とされています。
しかし、「群衆」が5回も繰り返されています。
ピラトがやった、祭司長たちがやった、わたしは関係ない、と逃れることはできないのです。
主イエスがすべての人から捨てられたとき、「群衆」のなかにあなたもいたと、マルコ福音書は語るのです。



何としても死刑にしようとする人々の前で口を閉し、あざけりに耐えて、主イエスは十字架への道を歩んでいかれた。
権力や富、人々の賞賛が集まる場所に身を置くことなく、貧しい人や弱い人を励まし、共に歩まれた。
栄光に輝く王ではなく、もっとも惨めな姿、もっとも無惨な姿で、人々に捨てられ、殺された主イエスの十字架の死に、神の愛が示されています。

十字架に示された神の愛を受け止める時、赦された者として隣人と共に歩む道へと導かれるのです。
(2017年10月22日)


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