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他人は救ったのに

マルコ福音書15章21~32
十字架刑は、ローマに反逆した謀叛人をとことん痛めつける残酷な刑罰です。
裸にしてさらし者にし、苦しみを延々と続かせる、人間の尊厳を踏みにじる刑です。
自分の重みで体が引き裂かれ、内蔵が圧迫されてついに絶命する。
ローマに背いたらどんな目にあうか、見せしめにする刑です。



「罪状書きには、『ユダヤ人の王』と書いてあった。」(15:26)
これは、「お前がユダヤ人の王なのか」(15:2)というピラトの問いにつながっています。

「ユダヤ人の王」には、ダビデの再来としてローマを打ち破り、この国に栄光をもたらす王という意味があります。
しかし、この罪状書きは、主イエスはそんなことをめざしておられたのか、どういう方として来られたのか、なぜ十字架にかけられたのか、あなたはどう思うか、と問いかけています。

ここに登場する人たちはみんな、主イエスを罵り、侮辱します。
兵士たちに続いて二人の強盗が罵ります。
通りかかった人々は、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(15:29~30)と罵ります。

祭司長たちも律法学者たちと一緒になって侮辱します。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(15:31~32)
この言葉は、なぜ主イエスは十字架から降りなかったのか。十字架にかけられたままで最後まで耐え忍ばれたのは、なぜか。そんな問いを、わたしたちに投げかけています。

神の子なら、十字架から降りて歯向かう者を蹴散らすことができたのではないか。
でもそれは、神の御心ではなかったのです。

主イエスは、なぜ来られたのか。
「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(10:45)
その直前には、こんな言葉があります。
「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、・・・皆に仕える者に・・・すべての人の僕になりなさい。」(10:42~44)

神から遣わされたまことの王は、すべての人の僕として仕える方です。
病人、罪人、泣いている人に仕える姿で、神の力と愛を示すために来られた。
あなたも、例外ではない。「ユダヤ人の王」という罪状書きの意味が分かるか、という問いが隠されています。



主イエスは、仕える者の姿、奴隷の姿をとって、神の愛を伝えために来られた。
十字架の主イエスの姿に、神の愛がはっきりと示されているのです。
(2017年11月12日)



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