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神の子だった

マルコ福音書15章33~39
「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(15:38)

聖所と至聖所とを隔てる垂れ幕は、もはや必要ない。
主イエスの十字架によって、誰でも神に近づくことができる。
まったく新しい時代が始まったと宣言しているのです。



「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これはアラム語で、詩編22篇の冒頭の部分です。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)
この言葉については、さまざまな解釈があります。
一つは、詩編22篇の結びから、主イエスは十字架の上で、神への信頼を歌ったのだ、という読み方です。
しかし、苦痛の中で、孤独のうちに絶望の極みで神に訴えられた、と読むべきでしょう。

マルコ福音書は、「なぜ主イエスは人々から捨てられ、神から突き放され、救いの手が差し伸べられないまま、屈辱の命を終えられたのか。」と問うています。

もう一つ謎の言葉があります。
百人隊長が言います。

「本当に、この人は神の子だった」(15:39)

主イエスの気高い姿にうたれて、信仰告白したのでしょうか。
多くの人が、そう読んできました。
でも、それは違うでしょう。
兵士たちの残虐な振る舞いを制止しなかった人が、急に態度を変えるでしょうか。

マルコ福音書で「神の子」という言葉が出て来るのは、4回だけです。
1回目は1章1節、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)という標題的な言葉です。
最後は、今日の箇所です。
あとは、「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。」(3:11)

あと一ヵ所は、汚れた霊に取りつかれたゲラサの男が叫びます。
「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」(5:7)



マルコ福音書は、「ナザレのイエスは神の子である」と、救いからもっとも遠いと思われる人の口を通して語ります。

信仰深い人の目には、かえって見えないかもしれないぞ、という謎かけです。
ナザレのイエスは神の子であると、わたしたちは告白しているでしょうか。
簡単に分かったつもりにならないで、問い続けていきましょう。
(2017年11月19日)


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