ヨハネ福音書2章13~12
過越の祭は、出エジプトの故事を思い起こし、神の民とされたことを心に刻む祭です。
家々では、小羊を屠って、種入れぬパンを食べ、苦菜を食べます。
この過越の祭は、小羊の犠牲を抜きにしては語れません。
「宮清め」の記事は、マルコ、マタイ、ルカの福音書では、十字架の出来事の直前におかれています。しかし、ヨハネ福音書では主イエスの宣教の始めに、カナで清めの水をぶどう酒に変えられたことと並んで置かれています。
ヨハネ福音書の記者は、このふたつの出来事を主イエスとは何者かを示す重要なしるしとして意味づけているのです。
「宮清め」は、神殿での堕落した祭儀を主イエスが叱られた話とされてきました。
しかし、犠牲の羊や鳩を売ったり、献金するためにローマの貨幣をユダヤの貨幣に両替する仕事は必要なことでした。
祭司たちも神殿祭儀の限界をわきまえていたはずです。
「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(列王記上8章27)
これは、神殿を建てたソロモンの祈りです。
預言者たちも、献げ物によって救いが約束されるわけではないと警告しています。
「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか(中略)雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。」(イザヤ書1章11)
ここでは、神殿祭儀のいいかげんさが批判されているのではなく、全く違う次元のことが語られているのです。
熱心に律法(教え)を守り、犠牲(礼拝)を捧げることで救いを得ようとするときは、もはや終わった。
「過越しの小羊、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29)として、主イエスが十字架にかかり復活された、新しいときが始まったと、ヨハネ福音書は宣言しているのです。
(2014年8月10日)
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