ヨハネ福音書2章1~12
「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。・・・死を永久に滅ぼしてくださる。・・・この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。」(イザヤ書25章)
人々は、救い主、メシアを待ち望んでいました。
ヨハネ福音書は、主イエスが清めの水を極上の葡萄酒に変えられた、これはメシアであることを示す「最初のしるし」であると伝えています。
メシアが来られるとき喜びの祝宴に招かれるというイザヤ書の預言が成就した、ナザレのイエスこそメシアだと語っているのです。
4節の「わたしとどんなかかわりがあるのです。」という冷たく突き放した言葉は、どういう意味でしょうか。
苦境の時、私たちは助けを求めます。葡萄酒がなくなったとうろたえ、必要を訴えます。
しかし、私たちの祈りは、どれほど自分勝手なことでしょう。
広島に原爆を投下するために爆撃機エノラ・ゲイが出撃するとき、従軍牧師が作戦成功と無事の帰還を祈ったということを思い起こすだけで十分です。
社会のために、平和のためにと祈るときでさえ、身勝手な祈りをしてしまうことがあるのです。
自分勝手な祈りは、そのまま聞かれることはありません。
しかし、「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとどけられた。」ということが起こります。
祈りを上回る恵みが、与えられるのです。
私たちにできることは、「水がめに水をいっぱい入れ、運ぶ」ことです。
神様の定めた時が来ると、私たちの汲んだただの水が極上の葡萄酒に変えられるのです。
きびしい現実にぶつかるときも、私たちは希望を失ってしまったり、なげやりになることなく、御心が行われる時が来ることを信じて待つこと、立ち上がることができるのです。
(2014年8月3日)
ホームページに戻る
PR