マタイ福音書8章18~22
「向こう岸に行く」(8:18)
カファルナウムは、ガリラヤ湖の北西にある町です。
向こう岸というと、ガリラヤ湖の東になります。
そこは、異教徒の地です。
「向こう岸に行く」は、次のステップに踏み出す覚悟を迫る言葉なのです。
「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(8:19)
主イエスについて行けば成功が待っているという考えが、いかにずれているか気づかせようとして、
「人の子には枕する所もない。」(8:20)と言われました。
神から与えられた使命を果たそうとして、わたしはみんなから攻撃され、ついには捨てられる。
そのことを、あなたは分かっていない、と言われたのです。
「イエスは・・・『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:30)
この「頭を垂れて」と、「枕する」は同じ言葉です。
主イエスは休む暇もなく走り通し、ついに頭を休めることができたのは十字架の上であったのです。
「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(8:22)
「死人たちから離れよ。葬りは死人たち自身にまかせて。」という言葉です。
主イエスは、愛する人を失った者の嘆きをしっかり受け止めてくださる方です。
この弟子が嘆き悲しんでいたのであれば、きっと「もう泣かなくともよい」と慰めてくださったはずです。
しかし彼は、葬儀をどう執りおこなうかに、心を奪われていたのです。
町外れにある墓場に向かう葬列で、泣き女が泣き、笛吹きが悲しい歌を奏でる。
葬儀を立派にやり遂げることが、子供の義務とされたのです。
主イエスは、そんな弟子の様子を見て、しきたり通り葬式をやり遂げることが、そんなに大切なことか。
大切なのは、大げさな葬儀によって悲しみを紛らわせることではない。
その人の志を受け止めて、神に従い、まことの生き方を歩むこと、それが真実の葬りではないか。
世のしきたりに縛られて、大切なことを見失ってはならない、と言われたのです。
わたしたちは、どういう思いで主イエスに従おうとしているでしょうか。
主イエスに従うとき、何の心配もない、何の困難もないということではありません。
様々な苦難が、突然襲って来ます。
しかし、苦難の時も、主イエスが共にいてくださり、必ず道を備えくださるのです。
結果を恐れず、主イエスにすべてを委ねて一歩踏み出しましょう、
向こう岸に向かって。
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