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わたしのこころに適う者

マタイ福音書3章13~17

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(3:15)
「正しいこと」(ディカイオシュネー)という言葉は、マタイ福音書のキーワードです。
ギリシア語でディカイオシュネー「義」は、人間の徳として正しいことを意味します。
ところが、ヘブライ語の「義」(ツェダカー)は、神の救いの業を意味します。



「空の鳥を見よ、野の花を見よ」という文脈での、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(6:33)
この神の「義」が、「正しいこと」と同じ言葉です。

今わたしがバプテスマを受けることが必要だという意味と、
神の救いの御業につながることを一つひとつやり遂げるのは大切だという意味が重なっています。
わたしたちの背きにもかかわらず、どこまでもわたしたちを救おうとされる神の救いの御業が、今、始まろうとしているのです。


主イエスがヨハネからバプテスマを受けた後、天が開け、声が聞こえます。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:17)

これは、詩編を下敷きにしています。

「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。」(詩編2:7)

今、即位する王は、神に祝福された特別な方だ。
すべての王よ、神が油注いだこの方に従え、と歌います。

「わたしの心に適う者」(3:17)
は、イザヤ書42章をも下敷きにしています。
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。」(イザヤ書42:1)
これは、四つある「苦難の僕の歌」の冒頭です。
よく知られているのは53章です。

「わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。」(イザヤ書53:4~5)

イザヤ書42章を想起させることによって、人々の罪を背負って打ち砕かれる「苦難の僕」と、十字架に向かう主イエスの受難の歩みを重ね合わせているのです。



しかし、主イエスが悔い改めのバプテスマを受けることが、なぜ必要だったのでしょうか。

罪のない神の子が、罪人の姿をとる。
これは、「苦難の僕」に重なります。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:17)

十字架へ向かう主イエスの姿に、神が目を留められた。神が選び、信任したとの声が天から届き、主イエスご自身が神の御心を確認されたのです。
(2018年1月21日)



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