マタイ福音書3章1~12
「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2)
「天の国」は、「神の国」を言い換えたもので、マタイ福音書だけに32回出てきます。
「天の国」とは、空の彼方に特別な場所があって、そこで幸せな暮らしができる、そんな意味ではありません。
神の支配・神の御心が行われることを意味します。
バプテスマのヨハネは、四つの福音書すべてが取り上げています。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」(3:7)
これは権力者たち、そして自らの信仰を誇る人たちに向けられた言葉です。
弱く貧しい民に向けての言葉ではありません。その点を、読み違えないようにしましょう。
終わりの日の裁きや悔い改めを、ことさらに言い立てるのは、間違っています。
たとえ神に背き、罪を重ねていても、すべての人が神から招かれている。
だから、神に立ち帰りなさい。
わたしが十字架についたのは、そのためだ。これが、主イエスのメッセージです。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(3:8)
「悔い改め」はヘブライ語でシューヴ、「神に立ち帰る」こと、ギリシア語ではメタノイア、「向きを変える」ことを意味します。
また、自分中心にしか生きることができず、正しく生きようとしてかえって人を傷つけてしまう人間のありようを指して「罪」というのです。
ファリサイ派は、律法を厳格に守ることを強調しました。
しかし、真面目すぎる信仰は、恐ろしいものになります。
「律法を守れ」と言いながら、あいつらは駄目だ、神の罰を受ける、と烙印を押す。
これは本末転倒です。
「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とは、立派な業績をあげることや功徳を積むことではありません。
神に従って歩むことができない人を温かく包みいたわること、隣り人と愛をもって支え合うことこそ大切です。
正しく生きようとして、どれほど人を傷つけているでしょうか。
主イエスの十字架によって、わたしたちは神の方に向き直るだけで、どんなに罪を重ねていても赦され、救いに与らせていただける。
これが「天の国は近づいた」の意味するところです。
神の救いは十字架においてすでに成就している。
その救いを受け入れ、救いに向かって方向転換する。
そのことだけが求められているのです。
PR