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ヨハネ福音書7章1~9
主イエスは、ベトザダの池で38年もの間病気で苦しんでいた人を癒やされました。
ところが、それが安息日であったため、ユダヤ教の指導者たちから敵視されるようになります。
律法を軽んずるイエスを許せないと憤る人々は、
実は律法を尊重しているわけではありません。
律法を解き明かした主イエスの言葉の力に圧倒され、
自分たちの立場や地位を揺るがしかねないと、憎悪をつのらせたのです。
仮庵祭が近づいたとき、イエスの兄弟たちが主イエスに
「自分を世にはっきり示しなさい」(7章4)と勧めます。
祭でにぎわうエルサレムで力ある業を見せたら、きっと多くの人が感心し、
宣教活動が成功するだろうというのです。
エルサレムに上って、天下に名をとどろかせなさいと勧める彼らの声は、
悪魔の誘惑(マタイ4章、ルカ4章)に通じるものです。
主イエスは「わたしの時はまだ来ていない」(7章6)と、
この提案を拒否されます。
これは、カナの婚礼の物語で母マリアに答えた言葉と同じです。
「わたしの時」とは、どういう意味でしょうか。
「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」(13章1)は、
弟子たちの足を洗う直前の言葉です。
ゲッセマネの祈りは、
「父よ、時が来ました。」(17章1)という言葉で始まります。
神の真実と愛を示すために十字架にかけられるのを目前にして、「時が来た」と言われたのです。
「世は私を憎んでいる。」(7章7)とは、どういうことでしょうか。
わたしたちは、日々悪魔のささやきを聞きます。
こうしたら成功する、望みがかなう、立派だと褒めてもらえる、と。
主イエスは悪魔のささやきを退け、神に従って歩まれたために、
権力者たちから憎まれ十字架にかけられたのです。
何が神に従う道か、なかなか分かりません。
しかし、もっとも弱い人、小さくされている人の視点で判断し、
いたわり合って歩もうとしているかどうかが、きっと尺度となることでしょう。
(2015年1月4日)
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