マタイ福音書9章27~34
「ダビデの子よ」(9:27)という言葉は、栄光にあふれるメシア、強く栄える国をもたらしてくれる王を待ち望む、人々の期待の表れです。
しかし、真の救い主は、「ダビデの子」などという次元の存在ではありません。
「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ書35:5~6)
イザヤが語ったことが、今、目の前で起こっている。
マタイ福音書は、盲人の口を通して、「この方こそメシアである」と宣言し、イザヤの預言が成就した、救い主が到来した、と語るのです。
二人の盲人が見えるようになったとき、「だれにも知らせてはいけない」(9:30)と主イエスは言われます。
これには、二つのポイントがあります。
一つは、群集の勝手な期待です。
この国を強く栄える国にしてくれるという期待は、大きな誤解です。
人々は期待が叶えられないと分かると、腹を立てて「十字架につけろ」と叫ぶようになります。
もう一つは、ファリサイ派の人たちの敵意です。
癒しの業を見て、人間に罪を赦せるはずがない、と敵意を抱いたのです。
そして、それがついに殺意に変わります。
癒しの物語は、十字架につながっているのです。
「憐れんでください」(9:27)
ヘブライ語の「憐れみ」(ラハミーム)は、女性の子宮に通じています。
神の憐れみは、裏切り、背き続ける人間を、一方的に赦して受け入れる愛です。
「わたしにできると信じるのか」(9:28)
「あなたがたの信じているとおりになるように」(9:29)
この人たちの信仰が立派だから、癒されたのではありません。
主イエスは、二人の誤解に気づきながら、頭から否定しないで、よし分かった、願いがかなえられるようにと言われて、治してしまわれたのです。
主イエスを見上げて求めるなら、
たとえ救い主の意味が分かっていなくても、願いをかなえようという神の一方的な憐れみ、赦しの愛が、ここで語られています。
神の憐れみに触れるとき、罪をかかえた不十分なままで受け止めていただいた恵みを、
周りの人たちと分かち合う歩みへと、突き動かされるのです。
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