マタイ福音書9章18~26
「娘がたったいま死にました。」(9:18)
助けてくださいと、ひれ伏す父親に応えて出かけていく主イエスの前に、
「12年間も・・・出血が続いている」(9:20)女性が割り込んできます。
一方は人々から尊敬されている有力者で、もう一方は呪われた病気のために社会から排除されてきた女性です。
「お前に触ったら汚れる、近づくな」と言われ続けてきた女性に、
主イエスは「娘よ」(9:22)と呼びかけます。
「あなたは、わたしの娘だ、家族だ」という言葉です。
これだけで、この女性は癒されたことでしょう。
「『あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。」(9:22)
「救った」「治った」と翻訳されているのは、どちらも「救う」(ソーゾー)という同じ言葉です。
この女性が真に癒されるためには、家族として受け入れられ、仲間として歓迎される必要があったのです。
「救われる」とは、欠けることのない満たされた状態にされることです。
この女性は、「生ける屍」のように、苦悩に満ち、何の意欲も湧かない状態でした。
そんな女性が、「娘よ」と呼ばれて抱きかかえられ、喜びにあふれて生きる者とされたのです。
これに、「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」(9:24)という話が続きます。
「眠っている」とは、目覚める時を待つ状態です。
「死んだら、すべて終わり」ではないのです。
人間を打ちのめして無力にする病いや死の力を、主イエスは打ち破り、真の生きる力を与えてくださる方である、と語っているのです。
草花は、季節が来ると芽を出し、つぼみを付け、花を咲かせます。
長く咲き続ける花もありますが、一夜で散る花もあります。
どんな花も種を付け、実をつけ、次の世代を準備しています。
花が枯れなければ、次の種は実りません。
病いや死に打ちのめされたとしても、それで終わりではありません。
悲しみに出会うことによって、人間の悲しさを知ります。
大切な人を失うことによって、命がかけがえのないものであると知ります。
「あなたの信仰があなたを救った。」(9:22)
「信仰」(ピスティス)という言葉は、「真実」「信頼」「まこと」「ひたむきさ」という意味を含んでいます。
あなたのひたむきな真実があなたを救った、あなたの一途な願いが聞き届けられたというのです。
周りの人たちをひたむきに愛そうとする時、神の愛によって満たされるのです。
PR