マタイ福音書9章32~38
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(9:35)
4章23節に、ほぼ同じ文があります。
4章23節と9章35節が枠になって、主イエスの教えと御業を囲い込む形です。
何のために主イエスが教え、何のために癒しの業をなさったのか、ここで立ち止まって考えてほしい、というのです。
「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9:36)
「深く憐れむ」(スプランクニゾマイ)とは、お腹が引きちぎられるほどに心を揺さぶられる、という表現です。
希望を失い、空しいものに引きずられて、さまよっている人間を見て、心を揺さぶられたのです。
「羊」と「羊飼い」は、イスラエルの人々と神を表す言葉です。
「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。・・・わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」(エゼキエル書34:11、16)
神ご自身が失われた羊を見つけ出して、養う。傷ついたものを包み、弱ったものを強くする、と語られています。
これが、失われた1匹の羊を探すために99匹を残して探しに行くという話(18章)の下敷きになっています。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(9:37~38)
聖書が語る「収穫」は、終わりの日の裁きの時を意味します。
「収穫」は、実りを穫り入れるだけでなくて、毒麦を取り除く時なのです。
麦と籾殻に分けられ、籾殻は焼かれる。
その時が迫っているのです。
主イエスは、徴税人や罪人とともに食卓について、あなたも神に祝福されている神の子だと宣言なさった方です。
そんな方が、裁きの時だ、お前たちは裁かれると言って終わりになさるでしょうか。
主イエスは、終わりの日の裁きを前にして、
神の裁きを、ご自分の身に引き受けられたのです。
「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
何を祈るか。
収穫の時、総決算の時が迫っている。
さまよっているわたしたちの姿を見て、主イエスが心の底から憐れに思い、十字架への道を歩んでくださった。
そのことを、まず感謝しましょう。
赦された恵みを感謝し、その喜びを伝える人を送ってください、と祈る。
そして、こんなわたしをお用いください、と祈るのです。
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