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ベタニアの子ろばに乗って

マルコ福音書11章1~11
「だれも乗ったことのない子ろば」(11:2)

ろばは、馬のように速く走れません。
しかも、小さな子ろばです。

「だれも乗ったことのない」には、聖なる目的のために用いられる、汚れていないという意味が隠されています。
これはゼカリヤ書を受けています。

「見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る」(ゼカリヤ書9:9)



ろばに乗って王がやって来る。
「高ぶることなく」の元々のヘブライ語には、「貧しく、みすぼらしい」という意味があります。
ろばは平和の象徴というだけでなく、貧しさの象徴なのです。

「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。」(ゼカリヤ書9:10)

神の平和が実現する。
だから戦争の支度はいらない、そういう宣言なのです。


人々は、叫びます。
「ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。」(11:10)
イスラエルが最も栄えた時の王が、ダビデでありソロモンです。

ダビデは、平和の王ではありません。
人々は、強い国と繁栄を願い、この国をローマから解放する強い指導者を期待しました。
そういう気持ちが、「ダビデ」という言葉に表れています。
豊かな暮らしと平安を望み、それを実現してくれる「ダビデ」を求める、そんな気持ちは、わたしたちにもあるのです。

主イエスは、最もみすぼらしい姿をとって、小さな子ろばに乗って来られました。

「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」(10:42)

これは、ローマ帝国のことです。
しかし、あなたがたは、「すべての人の僕になりなさい。」(10:44)

「僕」は、「奴隷」という意味です。
ローマの将軍や総督のようになるのではなく、すべての人の奴隷になる、「仕えるために」(10:45)わたしは来た、と言われた。
そんな方を迎える時に、「ダビデ」という言い方はふさわしくありません。



人々の期待と主イエスの思いは、大きくすれ違っていたのです。
すべての人に仕えることなど、人間の力ではできません。

しかし、十字架の主イエスを仰ぐとき、主の呼びかけに応えたいという願いが生まれます。

「御心がどこにあるのか」と問い続け、仕方がないとあきらめるのではなく、「御心が行われますように」と求め続ける。

主に従っていきたいと祈る時、自分の力で歩むことができなかった者が、立ち上がらせていただけるのです。
(2017年5月21日)



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