マルコ福音書11章12~19
「葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て」(11:13)
「ぶどう畑」と「いちじく」は、「神の民イスラエル」を表すシンボルとされてきました。
ここで、いちじくの木を呪う言葉が発せられているのは、なぜでしょうか。
祭司長たちは、熱心に神を求めていたはずです。
しかし、自分の正しさを高めようとして信仰の道を歩む時、批判する人を憎み、従わない者を排除しようとします。
そういう傾向が、宗教にはあるのです。
宗教的な権威を振りかざし、律法によって人々を支配していることについて、主イエスは怒りの言葉を発せられたのです。
エレミヤ書24章には、バビロン捕囚とされた人たちは呪われている、神の罰を受けているとする見方は間違っている。
わたしは、あの人たちに目を留め、必ず連れ戻す。
あの人たちに正しい信仰が育つように、見守ると書かれています。
「わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。」(11:17)
これは、イザヤ書56章7節の引用です。
「ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」(11:17)
これはエレミヤ書7章11節の引用です。
「すべての国の人」とは、古代の文脈では「すべての民」「すべての民族」ですが、現代風に言えば「さまざまな信仰に生きる人」「思想信条が違う人」を受け入れて、共に歩むことにつながります。
違う思想・信条に生きる人を排除しないで、この人たちも神に愛されている大切な人だ、として共に歩むこと。
それが、今、わたしたちがめざすべき方向ではないでしょうか。
誰かを、おまえたちの来るどころではないとして排除する、その思い上がった態度を、主イエスは打ち砕かれたのです。
神は、すべての人を祝福し、招いておられるのです。
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