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何をしてほしいのか

マルコ福音書10章46~52
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10:47、48)

合唱をやる人は、「キリエ、エレイソン」という曲を練習したことがあるでしょう。
ラテン語で、「主よ、憐れみたまえ」。
詩編に何回も出て来ます。

世の人々から不当な扱いを受け、踏みつけにされている。
逆境から抜け出すことができない。
誰も助けてくれない。
こういう時に、発せられる祈りです。



「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした。」(10:48)

これは、

「人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(10:13)

と重なります。
盲人は、狂ったように叫び続けたのです。
訳も分からず何を騒いでいるのだと、多くの人々が叱りつけた。
しかし、主イエスは「あの男を呼んで来なさい」(10:49)と言われた。

「あなたの信仰があなたを救った。」(10:52)から、「願いが聞き届けられたのは、この人の信仰が立派だったから」とする読み方は、間違っています。

叫び続ける盲人、何の役にも立たない物乞い、のけ者にされている人を、主イエスはお呼びになった。
子供を来させなさい、妨げてはならない、ということなのです。

「安心しなさい。」(10:49)は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)の「勇気を出しなさい」と同じ言葉です。

あなたは目が見えないために、今まで物乞いするしかなかった。
人から軽んじられて、本当に辛かっただろうね。
でも、神の命の力によって、その苦難を乗り越えられる。
勇気を出しなさい、わたしはすでに世に勝っている、と言われるのです。

「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」(10:50)

これは、
「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」(イザヤ書35:5~6)
につながっています。

道行く人に「お恵みを」と訴え、自分はなんと惨めなのだろうと愚痴をこぼしてきた。
そんな暮らしを投げ捨て、躍り上がってやって来た。
イザヤの預言が成就した。神の救いの時が、今、目の前に来たというのです。



「何をしてほしいのか」(10:51)

本当に望むことは何かと、わたしたちにも問いかけられています。
盲人は、「目が見えるようになりたいのです」(10:51)と言います。

主イエスは、何と言われたか。
「行きなさい。」(10:52)まことの命に向かって歩き始めなさい、と言われたのです。
もう少し修業して、準備が整ったら従います。
そんなことを、望んではおられないのです。

よちよち歩きで良い、何も訳が分からなくて良い。「従って来なさい」、と主イエスは招いておられるのです。
(2017年5月14日)



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