マルコ福音書10章32~45
「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10:33~34)
受難の予告は、8章、9章、10章と、立て続けに言われています。
弟子たちは、「殺される」とは思わなかったのです。
とんでもない苦しみに遭うが、それは三日で終わり、メシアによる支配が始まると理解したのです。
だから、ヤコブとヨハネは、その時にわたしたちを右と左に置いてくださいと願ったのです。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。(10:38)
わたしたちは、日々祈ります。
でも、何を願っているのか、自分では分かっていないのかも知れません。
この言葉はそのまま、わたしたちに返ってきます。
「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(10:38)
「杯」という言葉は、定められた運命を受け入れることと理解しがちです。
しかし、預言書の伝統からすると、「わたしが飲む杯」(10:38)とは、「神の怒りを身に受ける」という意味になります。
神の「怒りの酒の杯」(エレミヤ書25:15)を飲む者は、神の怒りを受けて倒れ、滅びるのです。
「わたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」(10:38)
「バプテスマ」は、元来「水に漬ける、沈める」という意味の言葉です。
わたしに従って、命を落とすような苦痛や侮辱にあうことを、引き受ける覚悟が、あなたにはあるか。
自分の命を捧げることを覚悟して従うなど、わたしたちにはできないことです。
ここで、
「すべての人の僕になりなさい。」(10:44)が、ヒントになります。
これは、十字架の死を覚悟してエルサレムへの旅を始めようとしておられる主イエスが、語られた言葉です。
あなたたちはわたしのようには到底できない。
でも、友のために尽くすことならできる、と言われたのです。
欲望に支配されて生きてきた者が、偉くなりたい、成功したいと願ってきた者が、生まれ変わって、まことの命を受け継ぐ者とされる。
そして自ら進んで仕える人、僕(奴隷)になる。
「仕えられるためではなく仕えるために・・・来た」(10:45)と言われる方が、先頭に立って進んでいかれます。
この主イエスに従って、歩んでいきましょう。
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