マルコ福音書10章17~31
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10:17)
「何をすれば・・・」という考え方が、実は問題なのです。
「善い先生」(10:17)の「善い」という言葉は、創世記の冒頭に出て来ます。
「神はこれを見て、良しとされた。」
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1:31)
「良い」、ヘブライ語で「トーブ」、
神のなさることはわたしたちの知恵をはるかに超えて素晴らしいという言葉です。
これは、
「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」(10:18)
「人間にできることではないが、神にはできる。」(10:27)
につながってきます。
立派な行為によって、神に「良し」としていただくことは、人間の力ではできないのです。
「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(10:19)
これは、十戒の後半部分ですが、十戒の順序と違います。
この六つの最初に来るのは「父母を敬え」ですが、
「殺すな」が最初に置かれています。
わたしたちは、心ない言葉で人を傷つけ、人を踏みつけにします。
傷つけ合うのではなく、受け入れ合うことが強く意識されているのです。
「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10:20)
わたしには何ひとつ恥ずかしいことなどないと、胸を張っています。
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」(10:21)
「慈しむ」は、神の愛「アガペー」の動詞形です。
主イエスは、愛をもって接しておられるのです。
冷たく突き放しているのではありません。
子供を連れてきた人たちを叱った弟子たち、
離縁状を渡せば離縁できるとするファリサイ派の人々に、
互いにいたわり合うことが神の御心だ、
「子供」、小さな存在を受け入れなさいと語られたのです。
「正しい行い」によって救いを得ようとする生き方を捨てて、「わたしに従いなさい」(10:21)という招きの言葉です。
財産を捨てなさい、と要求されているのではありません。
「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10:28)
確かにペトロは、仕事を捨てて、従いました。
でも、主イエスが捕らえられた時、「わたしは知らない」と言って逃げ出しました。
ここに、
「人間にできることではないが・・・」(10:27)という言葉がつながってきます。
わたしたち人間の力ではできないけれど、神の憐れみによって、救いに与ることが赦されるのです。
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