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ヨハネ福音書12章20~26
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:24)
この言葉は、十字架の死を前にして、「ギリシア人」が面会を求めてきたという導入に続いて語られます。
これは、主イエスの十字架がすべての人のためであることを示しています。
ここで「ギリシア人」は、目に見えるものしか信じようとしないわたしたち自身を指しているとも言えます。
主イエスの十字架の死を見て、何という惨めな死だ、神から見捨てられたのだ、こう人々は思ったはずです。
しかし、その無惨な十字架の死に、神の愛が示されています。
「人の子が栄光を受ける時が来た。」(12:23)神の栄光は、人間が考える栄光とはまったく逆の姿で示されるのです。
この夏、佐世保近郊の川棚町で「特攻殉国の碑」を見ました。粗末な魚雷艇や潜水による特攻で7000名もの戦死者を出したことを知りました。
この顕彰碑は、「崇高なる偉業を讃え」、愚かな作戦で多数の若者を無駄死にさせた事実を見えなくしています。
アジアの多くの人々を踏みにじったことに対する反省も、見当たりません。
人間が栄光を語ろうとするとき、こういう偽りが起こります。
わたしたち自身の、愚かな過ちを直視しようとしません。こうして、過ちを何度も繰り返すのです。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(12:25)
これは、現在完了形で書かれています。
主イエスを神から遣わされた方と信じて信頼する人は、永遠の命をすでに得ており、今も持ち続けているというのです。
「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」(12:26)は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(15:12)と響き合っています。
ここで、考え違いをしないでください。
赦しあったら「永遠の命」が得られる、だから愛し合いなさい、というのではありません。
反対です。主イエスが惨めな十字架の死を引き受けてくださった、その愛によって、わたしたちも互いに足を洗い合うことができる。とうていできるはずのない、赦しあう関係に生きることができる。
「永遠の命に至る」とは、そういうことです。
(2015年8月16日)
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