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ヨハネ福音書12章37~50
「預言者イザヤの言葉が実現するため」(12:38)は、誤解を招きやすい箇所です。
38節は、イザヤ書53章からの引用です。
鞭打たれ嘲られる「苦難の僕」が屠り場に引かれていく姿を見て、
この小羊がわたしたちの罪のために殺されようとしているとは、誰も考えなかった。
力強い王としてメシアが現れる、そう人々は信じて待ち望んでいた。
だから、「苦難の僕」の姿をとり、「過越の小羊」となるメシアを受け入れることができなかった、と言うのです。
40節は、イザヤ書6章からの引用です。
預言者イザヤの時代は、どの国と同盟を結ぶかで動揺していました。
「近隣諸国との同盟は助けにならない、大国にすり寄ると国を滅ぼす、ただ神に信頼せよ。」というイザヤの預言を、人々は聞き入れませんでした。
初代教会の人々は、ローマの迫害とユダヤ教からの圧迫を受けて苦しみました。
神から遣わされて神の言葉を伝えた主イエスが、メシアとして受け入れられないで殺されてしまったのは、どうしてだろうかと考えました。
そして、イザヤが預言したあの状況と同じことが起こったと気づいたのです。
目の前の栄光と幸せを追い求めて、神の言葉を受け入れない。
これが神に従う道だと分かっていても、かたくなに拒絶する。
そんな人間の姿は、イザヤが預言したことと同じだと考えたのです。
「会堂から追放されるのを恐れ」(12:42)、「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」(12:43)という言葉は、わたしたち自身の姿です。
神の栄光よりも自分の誉れ、自分の願いが叶えられることを望んでいます。
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」(12:47)という言葉は、3章の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。・・・一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3:16)につながっています。
わたしたち人間が拒絶することを承知のうえで、神はその独り子を世に送られた。そして、主イエスは十字架にかかられた、と語っています。
悪が支配し、すべてが絶望にしか見えないときにも、「それでも切り株が残る。」(イザヤ6:13)
その切り株から、新しい芽が出る。
そうイザヤが預言し、主イエスが語っておられます。ここに、わたしたちの希望があるのです。
(2015年8月30日)
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