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愛し抜かれる神

  ヨハネ福音書13章1~11

主イエスの「洗足」は、次の導入句で始まります。

「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13:1)

わたしたちは、闇の力、悪の力が支配する「世」に生きています。
大きな力の前で絶望して逃げ出す、それがペトロです。

大きな力に身を委ねようとする、それがユダです。

そういう「世にいる弟子たち」、悪の力の前に屈服し絶望するわたしたちを、主イエスは十字架の死を前にして愛し抜かれるのです。



足を洗うのは、客を迎えて戸口で召使いがやることです。
「食事の席から立ち上がって」(13:4)というのは、異常なことです。

わたしがこのまま十字架で死んだら、その意味が弟子たちには分からないだろうということで、食事の最中に弟子たちの足を洗い始められたのです。

ペトロは、なぜ「わたしの足など、決して洗わないでください」(13:8)と言ったのでしょうか。
「畏れ多いから止めてください」ということではありません。
ペトロは、栄光に輝く王のようなメシアを考えていたのです。

汚れた足を洗う奴隷の姿はメシアにふさわしくない、そう言っているのです。

それに対して主イエスは、僕の姿で足を洗う、十字架に架かって惨めな姿で死ぬ、そこにこそ神の御心が示されている。
このことを受け入れなさいと言われるのです。

「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(13:7)

わたしたちは、今起こっていることの意味が分かりません。
しかし、十字架と復活の出来事から、御心が分かるはずだ。

裏切る者、逃げ出す者をも、主イエスは愛し抜かれた。
そして、世にあって苦しみ、希望を失っているわたしたちに、そんなあなたたちの足をわたしが洗った。
だから互いに赦しあいなさい、愛し合いなさい、仕え合いなさいと主イエスは言われるのです。



弟子たちの足を洗う姿を見て、十字架と復活の意味を悟りなさい、神の愛に気づきなさいと呼びかけておられるのです。

(2015年9月13日)

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