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ヨハネ福音書13章12~20
ヨハネ福音書では、「わたしをお遣わしになった方(父)」という言い方がくり返し出て来ます。
「わたしをお遣わしになった方」を見なさい、父なる神がわたしを遣わされたという言い方で、動詞の分詞形で表現されています。
ところが、「遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。」(13:16)という箇所で、「遣わされた者」は名詞で、「使者」「使徒」という称号、身分になっています。
「使徒」と称して偉い者のように振る舞う者がいるが、けっして「遣わした者」(主イエス)にまさるわけではない、というのです。
ここには、初代教会の状況が反映されています。
使徒言行録10~11章には、ローマの百人隊長コリネリウスとその家族が洗礼を受ける記事があります。
コルネリウスは神を畏れる人で、福音を解きあかしてくださいといってペトロを招きます。
ペトロは夢で主の声を聞いたので、使いの者と一緒に出かけます。
ペトロの説教を聞いているとき、この家の人たちみんなに聖霊が注がれます。
そこで、ペトロは彼らに洗礼を授けます。
ところが、エルサレム教会に帰ってくると、なぜ異邦人といっしょに食事をしたのかときびしく非難されます。
そこで、ペトロは夢で主の命令を受けたからだと弁明します。
こうした、律法に従って異邦人を排除しようとする態度を、パウロはきびしく批判します。
そういう意見の対立があったのです。
「使徒」だなどと言って権威をふりかざすのは間違っている。
主イエスが弟子たちの足を洗われたのは、そういう態度を打ち砕くためではなかったのか。
神の前で誇れる人はいない。
ユダは裏切った、ペトロは逃げ出した。他の弟子たちも同じだ。
誰が一番偉いかと、論じ合っていたではないか。
神の前で正しい者は一人もいない。しかし、赦された。
だから赦し合いなさい、愛し合いなさいというのです
わたしたちは、自分こそ正しいと考え、自分の業を誇ろうとします。
主イエスの言葉によって、わたしたちの傲慢を打ち砕いていただきましょう。
そして、救いに入れられたのは、ただ恵みによることを、素直に受け止めましょう。
(2015年9月20日)
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