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人々は食べて満腹した

マルコ福音書8章1~10
6章の五千人の食事は、バプテスマのヨハネが首をはねられたあと、落胆する民に与えられたものです。
8章の四千人の食事は、デカポリスの地方で異邦人と混じり合って暮らす、汚れた民とされた人たちに与えられたものです。



「もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」(8:2)

十字架にかかり、復活されたのは「三日」目です。

一人息子イサクを棒げなさいと命じられて、アブラハムはモリヤの山に向かいます。
神の御心がどこにあるのか分からず、苦悩する「三日」の旅です。

群衆はこの方に従えば救いが得られると望みを抱きつつ、なお不安を抱いています。
「空腹のままだ」とは、そんな状態を指しています。

「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。」(8:3)
倒れてしまいそうなわたしたちの弱さを、主イエスはしっかり受け止めてくださるのです。
「遠くから来ている者もいる。」(8:3)はるばる遠くから来た者、異邦の地から来た者、困難な事情をかかえてやって来た者がいることを、ご存知なのです。


「パンは幾つあるか」、「七つあります」。(8:5)
七は、完全数です。弟子たちは、わずかしかないと嘆きます。
しかし、これで十分だと、主はおっしゃるのです。

「感謝の祈りを唱えてこれ(パン)を裂き」(8:6)
「賛美の祈りを唱えて、それ(魚)も配るようにと言われた。」(8:7)
「感謝の祈り」「賛美の祈り」は、ユダヤの人たちが、食事の前に捧げた祈りです。

聖餐式は、最後の晩餐の時に、主イエスが「これはわたしの体、・・・わたしの血」(14:22、24)と言われて、パンと葡萄酒をお与えになったことに由来しますが、この五千人あるいは四千人の食事にも起源があるのです。

「四千人」(8:9)の「四」は、四つの方角を表すとされています。
四方から、つまり世界中からすべての民を招いて、命のパンを与えるという意味があるのです。



「残ったパンの屑を集めると、七籠になった。」(8:8)
ここでの「籠」は、人間が入るほど大きな籠で、「七」は完全数です。
つまり、無尽蔵にあるということです。

主イエスは、わたしたちの弱さをよくご存知で、
「わたしのパンを食べなさい、いやわたしを食べなさい」と呼びかけておられるのです。
十字架へと向かう主の歩みを想い起こし、命のパンをいただいて、真の命を生きる者とされたいと願います。
(2017年2月5日)




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