忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

他者を踏みにじる欲望

マタイ福音書5章27~32
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも・・・」(5:28)という言葉は、わたしたちを戸惑わせます。
魅力的な人を見たら、誰でも心がときめきます。
それを、主イエスは罪のかたまりのように言われるのでしょうか。

古代ユダヤでは、姦淫の罪は男にはほとんど適用されませんでした。

ヨハネ福音書8章の「姦淫の女の物語」で、姦通の現場で取り押さえられたのは女性だけです。
十戒の第7戒、「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)は、男性が力にまかせて女性を思いのままにすることを、神はお許しにならないという宣言です。
ところが実際には、女は危険だから近づくなという警告として機能していたのです。
主イエスは、姦淫の罪を犯してはならないと、きびしく繰り返されたのではありません。
むしろ、男たちの無責任な責任転嫁に対する怒り、叱責なのです。
次の「離縁してはならない」という箇所も、よく似ています。
古代ユダヤでは、妻は財産として扱われ、ひどい仕打ちを受けても自由の身になることができない。あまりにもかわいそうだということで、離縁状を書いて自由の身にせよという救済措置が定められたのです。
ところが、ささいな落ち度を理由に離縁するようになった。
そんな社会に対して、主イエスは警告しておられるのです。

パウロは、「信頼できない相手なら、別れるにまかせなさい。結婚に奴隷のように縛られてはならない。」(Ⅰコリント7:15、意訳)と語っています。

「離婚してはならない」とは真逆です。
教会は、長いあいだ、離婚を禁じてきました。
互いに相手を尊重することなしに、相手を結婚という制度に縛り付け、自由を奪う。
そんな身勝手を許してきたのです。
これは、聖書の言葉が、思い込みによっていかに人間を押さえつけることになるか、その一つの事例です。

主イエスの言葉は、身勝手な男の行動と、それを許している社会に向けられています。
主の言葉を聞くとき、わたしたちは相手の人格、人権、家族、生活、思いを大切にするよう、求められていることに気づくのです。
(2018年5月6日)






ホームページに戻る
PR

Copyright © 門司大里教会メッセージ : All rights reserved

「門司大里教会メッセージ」に掲載されている文章・画像・その他すべての無断転載・無断掲載を禁止します。

TemplateDesign by KARMA7
忍者ブログ [PR]