マタイ福音書5章8
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(5:8)
この「心」にあたる言葉が、旧約聖書で端的に表現されているのは、申命記6章です。
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)
この言葉は、良きサマリア人のたとえ(ルカ10章)の導入部分で引用されています。
詩編51篇はその標題によると、ダビデがバト・シェバと通じたのち、神の赦しを願って歌ったとされています。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。・・・神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:12、19)
わたしは、赦しがたい罪を犯しました。
けれど、もう一度赦してください。
わたしは、自分の力で清い心を取り戻すことができません。
どうか、清い心を与えてください。
あなたは、打ち砕かれた霊を退けることはなさらないでしょう、と歌うのです。
自分はこんなに正しく生きていると自負している人は、「打ち砕かれた霊」の対極にいます。
「心の清い人々は、幸いである」(5:8)は、自分の罪に苦しみ、打ち砕かれている人の幸いを語っているのです。
ルカ福音書18章に、こんな話が出てきます。
あるとき、神殿でファリサイ人が祈りを捧げていました。
「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18:11~12)
ところが、徴税人は遠くに立って、胸を打ちながら言います。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカ18:13)
この二人が対比され、「罪人のわたしを憐れんでください。」と祈る徴税人こそ、神様から受け入れられたというのです。
人間は、立派に生きようとしてがんばるとき、とんでもない間違いを犯します。
人を傷つけながら生きてきたことを忘れて、自分は立派な人間だと胸を張っている。
そこに大きな落とし穴があるのです。
「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。」とは、「罪人のわたしを憐れんでください。」お赦しくださいと祈ることができる人こそ、神の御心を知ることができるのです。
「打ち砕かれた心を与えてください」と祈ることが、求められているのです。
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