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憐れみ深い人々は幸い

マタイ福音書5章7


「情けは、人のためならず」ということわざを、多くの人が間違って理解しているそうです。

人に親切にすると、その人はそれに甘えるようになってしまう。
だから、人に親切にしても、結局その人のためにならない。こう誤解しているのです。

本来の意味は、逆です。
人に親切にしたら、巡り巡って自分も親切にしてもらえる。
だから、目先の損得を考えず、みんなに親切にしなさい。そういう教えです。



「憐れみ深い人たちは幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」(5:7)
は、このことわざとと重なるのでしょうか。

9章に、こんな記事があります。
「なぜ、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(9:11)と、ファリサイ派の人たちが非難した。これに対して、主イエスが言われます。

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」(9:13)

これは、ホセア書6章6節の引用です。
神がお求めになるのは、高価な捧げ物ではなく、憐れみだというのです。

「あいつらは罪人だ」と言って仲間はずれにせず、互いに受け入れるよう、神はお求めになるのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9:12~13)

わたしが来たのは、罪人を招いて赦すためだ。
「憐れみ」には、「神が罪人を赦してくださる」という意味が含まれているのです。

18章に、こんなたとえがあります。
主人からの借金を返せなくなった家来がいた。
主人は、本人も家族も奴隷となり、すべて売り払って返済せよ、と命じます。

しかし、家来はひれ伏して、どうか待ってくださいと願った。
主人は憐れに思って、借金を帳消しにしてやった。
ところがその家来は、100デナリオンを貸している友に返済を迫り、牢に放り込んだ。
この話を聞いた主人は、こう言います。
「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(18:33)

1デナリオンは、1日の賃金です。
これを1万円とすると、100デナリオンは100万円、帳消しにされた1万タラントンは6000億円です。
1日に100万円ずつ使って、1643年かかります。

それほど途方もない赦しをいただきながら、わずかの借金を容赦せず、友を牢に放り込むのか、という話なのです。

背き続け、罪を重ねるわたしたちを赦そうとなさる、神の熱い思い、これが「憐れみ」です。

わたしたちは、神からいただいた赦しを忘れ、周りの人を赦そうとしない。
互いに赦し合い、受け入れ合い、共に歩みなさい。
そう呼びかけられているのです。



わたしたちをどこまでも赦そうとなさる神の「憐れみ」の窮極の姿が、主イエスの十字架です。その深い意味を、受難節にあたって、もう一度捉え返しましょう。
(2018年3月18日)




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