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義に飢え渇く人々は幸い

マタイ福音書5章6


「義に飢え渇く人々は、幸いである。」(5:6)
「飢え渇く」は、比喩的な表現です。
食べ物はなくて、このままでは飢え死にしてしまう。
水がなくて喉が渇いて死にそうだ、という切羽詰まった状態です。

「命のパン」、「命の水」が与えられることにつながる、象徴的表現です。



「義」は、右と左の重さが釣り合う「はかり」、そこから公平、公正につながります。
同時に、「義」は法廷用語です。

訴えられた人に、裁判官が「あなたは無罪だ」と宣言する。
罪は消えないけれど、神が「その罪を不問にする」と宣言してくださる。
これが、「義とされる」ということです。

「慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし/まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。」(詩編85:11~12)

この「正義」(義)は、ヘブライ語で「ツェデク」、その女性形が「ツェダカー」です。
旧約聖書で、「義」は「救い」と同じ意味合いがあります。
バビロン捕囚という悲惨な境遇から「解放される」ことを含めて、「救い」という意味になります。
神によって社会正義が確立されるとか、救いがもたらされるということを含んでいます。

ところが、新約聖書では少し違います。

「信仰によって義とされる」(ガラテヤ書2:16)という場合、罪人であるこのわたしが神によって赦され、救いに入れられる、そういう意味合いで語られています。
「信仰によって」とは、わたしの立派な信仰によってではありません。
神の真実を信頼することによって、救われる。ルターが再発見した「神の義」です。

「義に飢え渇く人々」(5:6)の場合は、不正や悪が満ちているこの世を、神よ、何とかしてくださいと求め続け、御国を来たらせたまえと祈り求める人は、幸いだ。その人たちは満足するだろうと言うのです。

マタイ福音書で、「義」が印象深いのは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(6:33)という言葉でしょう。
「神の国と神の義を求める」とは、「御国が来ますように、御心がこの世界に実現しますように」と願い、「救いのときが来ることを求める」ことです。



どんなに背き続けても、神はどこまでも赦そうとして、わたしたちを包んでくださる。
どうせダメだと諦めるのでなく、希望をもって互いに助け合い、神に喜ばれる業を少しずつでも果たしていこうという招きなのです。
(2018年3月11日)



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