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ヨハネ福音書11章1~16
ラザロの復活物語は、キルケゴールの『死に至る病』、ドストエフスキーの『罪と罰』、いずれも世界の名著とされるこの2冊の書物に大きな影響を与えた聖書箇所です。
ラザロの復活物語は、他の福音書には出てきません。
これほどの出来事が、どうしてヨハネ福音書にしか書かれていないのか、とても不思議です。
このラザロの物語に続いて、ろばの子に乗ってホサナと迎えられてエルサレムに入っていき、受難の物語が始まります。
ヨハネ福音書では、受難の出来事、十字架の出来事は、ラザロの復活において始まっているという書き方になっています。
ベタニアは、エルサレムから2.7キロ、歩いて40分ぐらいの近さです。
主イエスがエルサレムにいるときには、たびたびこの兄弟を訪ねる、そういう親しい関係にあったようです。
マルタとマリアというと、忙しく働くマルタが、主イエスの話に聞き入っているマリアにいらだって、少しは手伝うように言ってくださいという場面を思い出します。(ルカ10章)
この兄弟は、どんな人たちだったのでしょうか。
マルコ14章やマタイ26章によると、ラザロは重い皮膚病でした。
当時、重い皮膚病は、神の罰を受けたからだと考えられていました。
家族の一人が重い病気になって、村はずれに追放された。
幸せに暮らしていたのに、急に差別の対象になった。
主イエスは、そんな兄弟と親しく関係を結ばれたのです。
「神の栄光のためである。」(11:4)
これは、神に栄光が現れるためにわたしたち人間に不幸が起こる、という意味ではありません。
不幸な出来事、悲惨な出来事、つらい出来事が、私たちを襲う。
しかし、どんな困難に遭ってもそれを乗り越えていく力が与えられる。
試練のなかで、わたしは神と出会ったという出来事が起こる、そのことを言っているのです。
ラザロの復活の物語は、ヨハネ福音書に書かれたしるしの物語の七つ目として、置かれています。
そして、受難と十字架の出来事を導くものとして、このラザロの物語が語られている。
そのことを、しっかり受けとめましょう。
(2015年5月31日)
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