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生きている者の神

マルコ福音書12章18~27
サドカイ派は、祭司や上流階級を代表するグループで、神殿の権威を背景に権勢をふるったとされています。

「あなたたちは聖書も神の力も知らない」(12:24)

旧約聖書に書かれた細かい規則を知っていても、その意味が分かっていない。
また、神が生きて働く方であることを知らない。
そう、ずばりと言われたのです。



「モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか」(12:26)

モーセは、ユダヤの民を虐待するエジプト人を殺したために、遠くミディアンの地に逃れます。

ある日、ホレブの山で不思議な光景を目にします。
芝が燃えているのに燃え尽きないのです。

そこで、主の声がモーセに臨みます。

「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ。」(出エジプト記3:10)

モーセは尻込みし、誰から遣わされたのかと聞かれたら何と答えたらよいか、あなたの名前を教えてくださいと言います。

すると、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)という答えが返ってきます。

「わたしはある」とは、わたしはすべての命の根拠となる存在だ。
すべての人と向き合って応答を求め、命を与える神である、という意味です。

アブラハムへの主の命令、「わたしの示す地に行きなさい。」(創世記12:1)は、良く知られています。

でも肝心なのは、それに続く言葉「祝福の源となるように。」(創世記12:2)です。

仲たがいし、憎み合う民と民の和解の架け橋となるように、との使命を与えられて、主の示す地へ旅立つ、これがアブラハムの旅立ちです。


アブラハムもヤコブも罪を重ねた人間です。
アブラハムは自分の身を守るために、妻サライを妹だと2度も偽りました。

ヤコブは、兄エサウを出し抜き、父イサクを欺いて、祝福をかすめ取りました。

そんな人間が、どうして祝福の源とされるのでしょうか。
でも、わたしたちこそ、神に背き続ける罪深い人間であることに、気づかされます。


「生きている者の神なのだ。」(12:26~27)

これは、「わたしは罪に死んでいる人に、新たな命を与えて生かす神だ」、罪に死んでいるあなたをわたしが生かす、という宣言です。

背き続けてきたにもかかわらず、わたしたちは神に愛され、新たな命を注ぎこまれ、希望に生きる者とされています。
そのことを感謝し、「祝福の源となるように」という使命を受け止めて、歩みたいものです。
(2017年7月2日)





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