マルコ福音書12章13~17
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。」(12:14)
銀貨には、ローマ皇帝の肖像が刻まれ、皇帝は神であると記されていました。
この銀貨を税金として納めるのは、偶像礼拝にあたるのではないかと問題にしたのです。
「税金は、納めるべきだ。」と答えたら、ローマの支配から解放するために神が遣わしたメシアだ、と期待していた人々は失望して怒りだすだろう。
一方、「ローマに税金を納める必要などない。」と答えたら、反逆を煽る煽動者であるとローマに訴えて、処刑させよう。こういう罠だったのです。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(12:17)
「返す」は、「税金を納める」という言葉です。
すると、こうなります。
「皇帝への税は納めたらいいではないか、神殿税を納めるのと同じように。」
主イエスに問答を仕掛けたのは、神殿の権力者から遣わされた人たちです。
当時、ローマへの税は、成人男子一人につき1年に1デナリオン、これは一日分の賃金と言われています。
ところが神殿税は、1年に2デナリオン、ローマに納める税の2倍でした。
がっぽり神殿税を集めているお前たちが、皇帝に税を納めるべきかどうかを問題にするのは、おかしな話だ。
誰に納める税であろうが、貧しい民を苦しめるのは同じことだ。
これは、痛烈な皮肉なのです。
ところが、これを皮肉と読まないで、「皇帝のもの」とはこの世の領域であり、「神のもの」とは信仰の領域である、この二つの領域で、責任を果たすべきであると読み取ってきた歴史があります。
かつて、それは国家への義務、あるいは国王への忠誠として正当化されたのです。
でも、そういう読み方は、間違っています。
「これは、だれの肖像か」(12:16)
この言葉は、
「神はご自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)
につながっています。
わたしたち人間は、神から呼びかけられ、それに応答する存在として、創造された。
そして、神によって造られた世界、すべての被造物の命を、神の代わりに守る責任を与えられた。
これが、「人間は、神の似姿である」という言葉の意味するところです。
すべての命は、神のものです。
主イエスは「捨てられた石」となって、わたしたちのために死んで復活し、主に従って隣人と共に歩む命へと招いておられるのです。
PR