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神の息を受ける

    創世記2章4b~25

「エデンの園」というと、蛇にそそのかされて林檎の実を食べ、楽園から追放される物語としてよく知られています。
しかし、これは人間が罪に墜ちるという物語でしょうか。



一人の人によって罪が世に入り」とパウロは言います(ローマ書5:12)。
しかし、そこにパウロの力点があるわけではありません。
キリストが死の力を打ち破り、罪の力・死の力に支配されている状態からわたしたちが解放された、そのことをパウロは言おうとしたのです。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2:7)

人間は塵のように弱く空しい存在だが、神の命の息が吹き込まれ、生かされている、創世記はそう語ります。

主なる神は人を連れて来て、・・・人がそこを耕し、守るようにされた。」(2:15)

「耕す」は、神に「仕える」という言葉です。大地に仕える存在として、人間は造られた。自分の務めを果たすことが、神に仕えることにつながるというのです。

人が独りでいるのは良くない。」(2:18)も、意味深い言葉です。
1章では、一日の最後に「良しとされた。」が繰り返されます。
ところが、2章では「良くない」、何かが欠けている、足りないものがある、というのです。

彼に合う助ける者を造ろう。」で、「助ける者」は、助手的な人、補う存在と考えがちです。
しかし、この「助け」は、「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」(詩編122:2)と同じ言葉です。
「彼に合う」も、ぴったりのとか、ふさわしいとかというよりも、「向き合う」という言葉です。

真正面から向き合って支える存在が必要だというのです。

こうして、動物が造られますが、「助け」にはなりません。
あばら骨の一部を抜き取り」(2:21)神が造られたもう一人は、同じ命を分けあった存在です。
だから、自分の思いのままにできるなどと考えてはならないのです。

人間が「土の塵」にすぎないのは、動かしがたい現実です。
しかし、神から命の息を吹き込まれた存在です。
一人一人に命が与えられ、使命が与えられています。

そして、独りで生きていくのは良くないと言われます。
何でも独りでできる、助けなど要らないと考えるのは、間違っている。
そうではなくて、互いに助け合って生きる、人間はそういう存在なのです。



最後の場面で、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(3:21)と書かれています。
人間は、神のいいつけを破りました。
しかし、そんなわたしたちを、神はなお守ってくださる。これが結びの言葉なのです。

(2015年9月6日)

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