忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

神の息吹によって、一つにされる

コリントの信徒への手紙一 12章1~13
「聖霊」とは、神の働き、神の息吹です。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)

この「命の息」、一人ひとりを生かそうとして働く「神の命の息吹」が、「聖霊」です。



「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)
「つながる」(メノー)は、「住む」、「留まる」、「宿る」という意味の言葉です。
神がわたしたちのところに留まる、宿る、つながる。この働きが「聖霊」です。

劇的な出来事というよりも、むしろわたしたちの生涯を通して働き続けてくださる、神の働きなのです。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」(12:12)
手があり、足があり、耳があり、口がありという風に、体にはいろんな部分があって、それぞれの働きをする。

同じように、各自は神から働きを与えられている。
それは、誰かが誇るためではなく、一つの大きな働きのために、違った役割や能力が与えられているのです。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(12:3)。

ローマの支配下にあって、ローマ皇帝は神であって従うべき方である、「ローマ皇帝は主である」と考えられていました。
「イエスは主である」は、これを否定する言葉です。
「皇帝は主ではない。ナザレのイエスこそ、まことの主である。」
こう言い表すことは、聖霊の助けがなければできない、というのです。

一人の例外もなく、誰にも聖霊が働いている。
大きな働きをする人だけでなく、何の働きもできないと思える人にも働いておられる。
弱い人を軽んじてはならないと、パウロは語るのです。



阪神大震災で全壊した教会を再建する時、神戸のカトリック教会は「野菜サラダのような教会」という言葉を掲げました。
シチューではなくて、野菜サラダのような教会をと言ったのです。
シチューは煮込んでいくと、肉や野菜が煮崩れて、もとの形が分からなくなります。
一つの方向に固まって、個性が消されてしまうあり方を求めない。
むしろ、それぞれ違う役割や務めを与えられ、多様で個性的な姿をとりつつ、一つとなって働く、そんな教会をめざしますと言ったのです。
これは、パウロの言葉を現代風に分かりやすく表現したものと言えるでしょう。
(2016年5月15日)


ホームページに戻る
PR

Copyright © 門司大里教会メッセージ : All rights reserved

「門司大里教会メッセージ」に掲載されている文章・画像・その他すべての無断転載・無断掲載を禁止します。

TemplateDesign by KARMA7
忍者ブログ [PR]