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荒野で叫ぶ声

マルコ福音書1章1~8



「福音」は、ギリシア・ローマでは、戦争に勝った報せ、あるいは皇帝が即位した報せという意味で使われました。




「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(1:3)という言葉を聞いて、人々は何を連想したでしょうか。
イザヤ書40章です。
紀元前6世紀にユダヤの国が滅びてバビロンに捕囚として連れていかれた時代に、第二イザヤと言われる無名の人が預言して語った言葉です。

バビロンに連れて来られて、何年も屈辱の日々を過ごしている。
しかし、エルサレムに帰る日が来る。
これが、「良い知らせ」(イザヤ書40:9)、「福音」です。



マルコ福音書が書かれたのは、紀元50年代から70年頃とされています。
ローマの占領下、抵抗運動が続くなかで何万人という人が虐殺される悲惨な時代に、マルコ福音書は書かれました。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。」(1:2)

これは、マラキ書3:1の言葉です。
マラキ書を引用してバプテスマのヨハネを登場させ、イザヤ書40章を引用して、解放の時が来た、まことの救い主が到来した、と宣言しているのです。
バプテスマのヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(1:4)

とされています。「悔い改め」は、ヘブライ語ではシューブ、神との本来の関係に立ち帰ることを意味します。
ギリシア語ではメタノイア、向きを変えるという意味の言葉です。
むなしい歩みから、神を求める生き方に方向転換する。これが「悔い改め」です。
ところで、「罪」には、複数形の「罪」と単数形の「罪」があります。
人をだました、盗みをした、暴力を振るったという風に、算えることができる「罪」、これは複数形の罪です。
一方、神のことを忘れて、自分中心に生きる。真面目に生きようとして、人を傷つけてしまう。その罪深さが、単数形の「罪」です。
その「罪」に気づいて、罪から解放されるように神に祈り求めることが「悔い改め」です。



バプテスマのヨハネは、神の裁きの日が迫っている、神の怒りを免れるために悔い改めてバプテスマを受けよと言って、ヨルダン川で洗礼を授けました。
ところが、主イエスは「悔い改めなさい」とは言われませんでした。
「罪人」とされた人々を訪ねて一緒に食事をし、あなたも神に愛されていると宣言されたのです。
(2016年5月22日)


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