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香油を注がれた方

 ヨハネ福音書12章1~8



「ナルドの香油」という讃美歌があります。

マリアが、主イエスに高価な香油を注いだ。マリアの献身にならって、わたしたちもすべてを捧げようと歌います。

しかし、ヨハネ福音書のこの記事の焦点は、そこにあるのでしょうか。




12章の書き出しの言葉「過越祭の六日前に」(12:1)は、主イエスの十字架の死が目前に迫っていることを意味しています。

主イエスの死が迫っている、いつ捕らえられ、殺されるかという、緊迫した状況です。

ところが、弟子たちは誰一人、主イエスが捕らえられて死ぬことが分かっていません。

マリアだけが、主イエスの死を予感し、まごころをこめて香油を注いだ。それをイスカリオテのユダがとがめ立てし、無駄なことをするなと言ったのです。


マタイ福音書やマルコ福音書では、香油は主イエスの頭に注がれたと書かれています。

主イエスこそメシアであることを示す記事となっているのです。

しかし、ヨハネ福音書では、なぜ足に注がれたとされているのでしょう。これは、「洗足の記事」(13章)につながっています。

主イエスに死が迫っているにもかかわらず、その意味を理解できない弟子たち、そんな彼らの足を主イエスは洗い、互いに仕え合いなさいと言われたのです。

主イエスの足に香油を注いだマリアの行為は、主イエスの歩まれた生涯に対して感謝の気持ちを表すと同時に、「互いに足を洗い合いなさい」と言われる主イエスの言葉に、わたしは応えていきますという信仰を表しているのです。




「過越祭の六日前に」という書き出しに注目すると、分かってくることがあります。

これは、マリアの献身をたたえる物語でも、イスカリオテのユダを批判する記事でもありません。

過越の小羊として主イエスが十字架で死ぬ、その時が迫っているのに、弟子たちはそのことに気付かず、その意味を理解することができませんでした。

わたしたちも、十字架に向かう主イエスの言葉をどう受けとめるか、今、時のしるしをどう見分けようとしているかが、問われているのです。
(2015年7月19日)

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