ルカ福音書22章54~62
Ⅱコリント4章7~18
主イエスが捕らえられたとき、みんなが逃げるなか、ペトロは大祭司の家の中庭までついて行きました。
ところが、「この人も一緒にいました」と言われて、「わたしはあの人を知らない」と言ってしまいます。
そう言い終わらないうちに、鶏が鳴きます。
「主は振り向いてペトロを見つめられた」
おまえが知らないと言うのは分かっていた、それでいい。主イエスに見つめられ、ペトロは激しく泣きます。
「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(22章61)
ここで「知る」という言葉は、とても重い言葉です。
創世記4章に、「アダムは妻エバを知った。」という言葉があります。
ここでは、互いに愛し合う者として向き合う関係に入ることが、「知る」という言葉で表現されています。
ペトロが「わたしはあの人を知らない」(22章57)と言ったとき、信頼し合う関係を否定したのです。
ペトロは主イエスから、人間をとる漁師にしようと言われた。
そして、あなたこそメシヤですと告白した。
それなのに、知らないと言ってしまった。
「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22章32)
この言葉を思い出して、こんな情けない私を主イエスは赦してくださったと、ペトロは教会の仲間たちに語ったのです。
十字架の刑は、何時間も苦しみを味わう残酷な刑です。
神の子がどうしてそんなむごい死に方をするのか、裸で鞭打たれ、嘲られて残酷に殺されたその姿を、弟子たちはどのように受けとめたでしょうか。
パウロは、弟子たちの中で重んじられていたわけではありません。
あいつは俺たちの仲間を牢屋に送った奴だ、もしかしてスパイじゃないのか、そもそも俺たちのように主イエスから選ばれた弟子ではない、と思われていたのです。
コリントの教会はパウロが作ったのですが、パウロが他の町に出かけているあいだに別の伝道者が来て、パウロが言うことは怪しいと中傷された。
これに対してパウロが弁明の手紙を書いた、それがコリントの手紙です。
「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(コリントⅡ4章7)
ここで「土の器」は、壊れやすい、粗末な容れ物という意味です。
弱くて、壊れやすい粗末な姿こそ、神に用いられるしるしだ、とパウロは言います。
それは、どういうことでしょうか。
使徒なら、奇跡や癒やしを行えるはずだ、威厳に満ちた説教ができるに違いないと人は考えます。
ところが、パウロはみすぼらしい姿で、病気をかかえていて、使徒たちの仲間に入れてもらえない者だったのです。
パウロは、福音宣教の使命を果たすために、自分に与えられた棘を取り去ってくださいと祈りました。
しかし、
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントⅡ12章9)
と言われたのです。
あなたの使命を果たすために、私の病気を治してください、棘を取り去ってくださいと祈り求めた時、パウロは示されたのです。
主イエスは、裸で、嘲られながら死んだ。
無惨な姿で、孤独のうちに死なれた。十字架は、栄光にあふれたものなどではない。
この主イエスの十字架の死と復活に神の赦しのしるしが示されていると、パウロは分かったのです。
神を信じれば、仕事が成功し、病気が治り、祝福に包まれるはずじゃないのか。
でもあの人は不運続きだ、病気で苦しんでいる、何一つ良いことがないと言われるようなことがあります。私たちは、そういう現実の中で生きています。
健康が与えられるように、家族みんなが幸せでいられるようにと願うのは、自然なことです。
でもそういった思いにとらわれ、失敗を恐れ、自分の弱さを受け入れることができないとき、大きな落とし穴が待っています。
成功したい、名誉を失いたくないと願う、そういう欲望にとらわれると、人を思いやる優しい気持ちがなくなっていきます。
まわりからどう見られるかが気になって、身動きが取れなくなる。これがペトロの姿であり、私たちの姿です。
主イエスは、弱い人とともに生きられた。
病気で皆から見離された人、罪の女と言われている人に目を留め、あなたも神の子だと言われた。
軽蔑されていた徴税人を訪ねて、今日この家に救いが来たと言って一緒にご飯を食べたのです。
人の眼を気にする人には、そんなことはできません。
主イエスは、人々から見捨てられ、軽んじられた人のところへ行って、神が共におられると宣言されたのです。
そして、権力者たちから憎まれ、命を奪われたのです。
あいつは使徒ではないと言う人がいる。
しかし、私がみすぼらしい姿で病気をかかえているのは、主イエスに従っているしるしなのだ。
この私の弱さは、死ぬはずのこの身に主イエスの命が現れるためなのだと、パウロは言います。
主イエスが一緒に生きようとされた弱い人、小さくされた人、価値がないと思われている人と一緒に生きる、そういう者に変えられていく、それが十字架に従うということです。
主イエスに従うということは、弱い人と共に生きるということなのです。
あいつは駄目な情けない奴だ、自分だけは救われたい、そういう自分一人の喜び、自分一人の救いを求めて隣人を軽んずる態度は、主イエスに従うこととは遠いのです。
私はいつもあなたと共にいる、失敗を繰り返す情けないあなたを見捨てないと言われる、十字架の主イエスに従って歩んでいきましょう。
中村和光
(2014年4月6日、主日礼拝説教)
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